政略結婚が、恋になるまで
12.浄化の結果
目が覚めた。部屋は明るい。
体を起こせば、昨晩に比べてずいぶんと違うことに気づいた。思ったより回復が早い。
熱も引いているし、体も軽い。魔力もほとんど戻っている。
良かった。これで浄化の続きができる。
そうほっとしたものの、膝にある違和感が気になった。昨晩は気にならなかったのに。
魔法医に診せたそうだから、魔力枯渇からくる節々の痛みに軽い鎮痛剤が使われていたのかも。だから、膝の痛みも感じにくかったのかも。
というか間抜けなことに、倒れるとき石畳に打ち付けた膝がはっきりと痛いわ。膝しか痛くないのは、ヘイデンさんがとっさに私の体をつかんでくれたからだけど。
「奥様、お目覚めでしたか!」
とドアが開いた。キャシーは元気がいい。何か良いことでもあったのかしら。
「奥様が元気になられて、嬉しいです。あたし、昨日はどうしようかと思いました。」
それもそうね、目の前で人が倒れたらね。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。」
私がそう言えば、キャシーがタオルや部屋着の用意をしながら答えた。
「ええ、皆、驚いていましたよ。街では奥様の話で持ちきりです。」
完全浄化もできずに倒れた、間抜けな奥様の話かしらね。
「あたし、街でもこの館でもあれこれ聞かれましたけど、奥様のことたくさん話しましたから!」
待って。いったい、どんな話を!?
ああ、それに尾ひれがついて噂話になるのよ。だいたい、おおむね、悪い噂に。
こちらに来て一か月でこんなことになるとは……。
部屋着に着替え、身支度を整えたところで、キャシーが言った。
「朝食には遅い時間ですけれど、旦那様がご一緒にとのことです。それから、この部屋まで迎えに来られるそうです。」
……なぜ?
キャシーが部屋を出る。ソファに座って待っていると、ルーファス様が部屋に入って来た。
その瞬間、私はどきっとして、昨晩の口づけを思い出してしまった。ルーファス様は昨晩のことなどなかったかのように、いつも通りなのに。
私がソファから立ち上がろうとすると、
「そのままで。」
とルーファス様が隣に座る。じーっと私の顔を見る。ええと、そのくらいにしてほしい。昨日のことをすごく思い出してしまうから!
ルーファス様が安堵のため息をついた。
「回復したようですね。念のため、今日もう一度、魔法医にみてもらいましょう。」
「単に魔力の使い過ぎですから、その必要はないかと。」
「ダメです、ちゃんと診てもらってください。」
ルーファス様にしては強い語調。私はちょっと驚く。ルーファス様が立ち上がって手を差し出す。
「さあ、行きましょう。エーメリーが朝食の用意をしています。」
その手を取り、今度は私も立ち上がる。次にルーファス様がしたことは。
私を横抱きに、抱き上げてしまった。
体がガチっと固まる。そんな私に比べ、ルーファス様はいつも通り。
「シェリル、膝が痛くありませんか。それも、ちゃんと魔法医に診てもらいましょう。」
「単に、打ち身と、擦り傷、ですから。」
何とかそう言ったものの、ルーファス様のこんな押しの強い笑顔、初めて見た。
「ダメです、ちゃんと診てもらってください。ああ、そんなふうに体を離そうとしては危ないですね。僕の首に手を回して。そうです。」
……言われたとおりにしてしまった、その結果。
どうしよう。ルーファス様が近い、近い、近すぎる。顔が近い。距離が近い。私の部屋着とルーファス様のシャツが、間に布地があるのにルーファス様の体を感じる。体温を感じる。お互い触れている部分がこんなにも多い。どうしよう!?
けれど、それは少しの間で終わった。いつもの部屋に着けば、ルーファス様がゆっくりと私を椅子に降ろしてくれたから。
けれど、私はまだドキドキしているのに、ルーファス様はいつも通り。ルーファス様にとっては何でもないことなの!?
「おはようございます、奥様。起きられるようにおなりになって、ようございました。」
とエーメリーが朝食の準備をしながら、ほっとした様子で私を見る。だから私も答える。
「ええ、単に魔力の使い過ぎで、ついでに膝を打っただけだから、たいしたことないのよ。」
「そのたいしたことないことに、僕はとても驚きましたよ、シェリル。」
ルーファス様がにっこりと笑顔を作る。けれど眼鏡の奥の眼差しが笑っていない。エーメリーがおやおやと目を見張る。私はルーファス様のこんな顔も、初めて見た。
それがいつもの穏やかな笑みに戻る。
「食欲はありますか?」
「ええと、はい。」
「奥様、それもようございました。料理長がはりきっておりましたから。」
その時、私のお腹がくぅと小さく鳴ってしまった。恥ずかしさのあまりどうしようかと思ったけれど、この場は微笑ましい雰囲気に包まれてしまった。
綺麗なナイフとフォークの使い方で朝食を食べ終えてしまったルーファス様の向かいで、私はゆっくりと朝食をいただく。エーメリーが紅茶の用意をしている。
私がナイフとフォークを置けば、二つのカップに紅茶が注がれた。いい香り。ミルクを注ぐ。カップを手に取る。
そうだ、これをお話しておかなくては。
「ルーファス様、浄化の続きをするため、午後から街に行きますので。」
ルーファス様のカップを持つ手が止まった。エーメリーもこちらをうかがっている。どうしたのかしら。
「すみません。昨日、話しておくべきでした。」
ルーファス様がカップを置く。
「浄化はもう済んでいます。」
私の置いたカップがかちゃと音を立てた。私はぽかんとしてルーファス様を見返す。
一瞬、意味が分からなかった。
でも、そう、誰かが依頼を受けたのかもしれない。いえ、受けたのね。だから浄化された。だから浄化が終わった。だからもう私がする必要はない。何もする必要はない。それなら……。
「シェリル、昨日あなたが浄化に向かったあと、バセットが魔導便を送りました。王都のタウンハウスを出る直前に受け取れたので、急遽叔父上と話し合い、王都の冒険者ギルドに向かいました。こちらの方面に向かう聖魔法士がいれば捕まえて、寄ってもらえないかと考えましてね。」
なるほど。
「それで、魔法士が見つかったのですね。」
「運よく。交通費をこちらで持つというと、引き受けてくれましたので助かりました。」
「その魔法士は?」
「こちらに着いたらすぐ浄化したいということでしたので、もう夜でしたが街の広場まで案内して、浄化の後はうちの馬車で行きたいという隣領まで送りました。」
さすが。それくらいできなければ、やはり冒険者としてはやっていけない。
ルーファス様がカップを手に取った。
「そして、館に戻ってみれば、あなたがあんな状態だったというわけです。」
……あんな?
「広場にいた護衛から、あなたのことを聞いてはいましたが。
倒れたあなたを昼間のうちに魔法医に診察させても、まだ目を覚まさない。」
……魔力の使い過ぎだから、それはしょうがない。
「しかも、怪我までしたというではありませんか。」
……それは単なる両膝の打ち身と擦り傷。痛いけど。
「奥様、そうでした。後で膝の包帯を変えましょう。」
壁際で控えていたエーメリーが口をはさむ。
「よろしくね。」
と私は答える。
ルーファス様が静かに、けれど感情を抑えるようにお茶を飲んでいる。こんなルーファス様も初めて見た。
私もカップを手に取り、静かにお茶を飲む。
意気込んでいた気持ちを落ち着かせるように。もう、私がすることはなくなったのだから。
それなのに私は何を考えているの。安全が第一よ。私だろうと、誰だろうと、浄化されればそれでいい。それが一番良い。
でも、どうしてかしら。少し、とても、残念だわ。
いえ、残念などと言える筋合いではないのよ。
そもそもそんな魔法士がいるならば、私が何かをする必要も最初からなかった。
そう、なかったのだから。
コンコンと、ノックの音が静かな部屋に響いた。エーメリーが応対に出る。
「大旦那様、いかがなさいました?」
そんな声が聞こえてきた。
お義父様!?
ピシッと背筋が伸びる。どうしよう、留守中に勝手なことをしたとか、余計なことをしたとか、そんな話になるのでは。
それに、ちょっと待って。部屋着でお義父様にお会いするのは少し恥ずかしい。それとも、貴族じゃないここではその辺がゆるやかということ?それとも私は病人扱いなの?
エーメリーもルーファス様も何も言わないから、いいのかしら。恥ずかしいけど。
お義父様が部屋に入る。ルーファス様がすぐに立ち上がった。
「叔父上、おはようございます。」
私も立ち上がろうとしたけれど、お義父様にそのままでと手で制されてしまった。
「せっかくくつろいでいるところを、すまない。」
椅子に座りながらお義父様が言えば、
「いえ、珍しいですね。何か急ぎでしたか?」
とルーファス様が答える。
けれど、お義父様の様子は急ぎの要件には見えないし、何か悪いことが起こったようにも見えない。
「まずはお前に。」
とお義父様がルーファス様に封筒を渡す。
「ミルトンで祝祭があるだろう?私のほうには招待状が来ていたが、お前宛てだ。」
「珍しいですね。たいていは叔父上宛てのなかに、ついでに僕たちも一緒にで、まとめて済ませてあるのに。」
お義父様が今度は私のほうを向く。
「そして、シェリルに。」
渡された封筒を受け取る。何かしら、これ?ルーファス様がはっとしてお義父様を見返しているけれど。
「今朝、ミルトンの街代表が届けに来た。次期領主の奥方に、ぜひ祝祭へ来て欲しいそうだ。」
「はい、それはもちろん。」
行くべきでしょうね。
お義父様が慈しむような笑顔になる。
「シェリル、礼を言う。あなたが聖魔法を使えるとは知らなかったが、あなたがすぐに動いてくれたおかげで助かった。」
そう言ってもらえるのは嬉しい。けれど、それは違うと思う。
「お義父様とルーファス様が聖魔法士をすでに手配されていたと聞きました。私はむしろ余計なことをしてしまったのではと。」
なぜか、お義父様の笑顔は変わらなかった。
「そうではない。あなたががすぐに行動を起こしたことで、街の住民が安心したのだ。次期領主の妻が街を壊すのではなく、浄化を選んだことも住民を安心させた。」
そう、なのかしら。
私のしたことは無駄だった。けれど、全部が無駄というわけでもなかった。
少しは、意味があったのだと。
それはほんの少しかもしれなくても。ほんの少しであったとしても。それでも。
私の浄化で喜んでくれた人が、いたのね。