政略結婚が、恋になるまで
16.不安と動揺
なぜかしら。怖い。怖くなる。
じっとしていられないような、怖さ。
“駆け落ちした坊ちゃんは、戻ってくるのかね?”
その言葉が頭から離れない。
私が今まで考えなかったこと。気にしたくなかったこと。それよりも目の前のことでいっぱいで。それだけで十分で。それだけで良かったのに。
だから排除したかったこと。
あの人は、婚約者だったあの人は、どうなったのか。
周りの人たちは、私に気をつかってそんな話はしない。
だから、動向がまるでわからない。
駆け落ちしたというあの人が、結局どうなったのか。
怖い。
怖いわ。すごく怖い。
怖さがもやもやと湧き出す。まるで瘴気のように。
でも、私は何がこんなに怖いというの。
もしもあの人が、結婚した妻を連れてここに戻ってきたら。
それは怖くない。
もしもあの人が、妻を連れてここに戻ってきて、跡継があの人に戻ったら。
私は次期領主の妻ではなくなる。女主人の役割も私の手から離れるでしょうね。
でも、それも怖くない。スキルを身に付けているところだから残念ではあるけど。
私が領主館から追い出されたとしても、悲しいし、寂しいけれど、怖くはない。
では、もしもあの人が、駆け落ちしたものの結婚はせずここに戻ってきたとしたら。
そして、跡継ぎがあの人に戻ったとしたら。それは怖くない、けれど。
その結果、あの人と私が結婚しなければならなくなったとしたら。
離婚させられるかもしれない。
ルーファス様がそれに同意してしまったら。
どうしよう。同意してほしくない。絶対にしてほしくない。
でも、ルーファス様はこの領地のことを真っ先に考える方だから、それが最善と思えばそうするかもしれない。
でも、それはイヤ。すごく嫌。
でも、私に何ができるというの。ルーファス様がそう決めてしまったら、私にはどうにもできない……。
いいえ、いいえ。
まだ、そうと決まったわけではないわ。
あの人が帰ってくるかどうか、わからないし。
あの人が結婚しているかどうかも、わからないし。
あの人が次期領主の座を求めたとしても、お義父様が退けられるかもしれないし。
あの人が次期領主に戻ったとしても、私と結婚する必要はないかもしれないし。
あの人と私が結婚という話が出ても、ルーファス様は離婚に同意しないかもしれないし。
もしかしたら、同意するかもしれないし。
どうしよう、不安でたまらなくなった。たったこれだけの推測で。
私は今の暮らしが好きだわ。奥様の仕事に、浄化を少し、庭や部屋でくつろぐ時間。お義父様、キャシー、エーメリー、バセット、カーライル、アントニー、私の周りにいる人たちと過ごす日々。
貴族の生活になじめない私が、貴族の娘として出来の悪い私が手に入れた暮らし。失いたくない。失うのは嫌。
何より、ルーファス様がそばにいてくれるから。
ルーファス様は穏やかな方、そばにいると私も穏やかな気持ちでいられる。今まで感じなかったほどの穏やかさを。
ルーファス様と一緒に過ごすこの暮らしを、毎日を、失いたくない。失うなど考えたくない。
今の幸せを手放したくない。
いいえ、待って。落ち着かないと。推測だけで、こんなに不安になっている。
私が考えていることは単なる推測よ、だから。
まずは確認をしなければ。
……誰に、どの点について?
エーメリーは知っているかもしれないけれど、尋ねたら、かえって私を気遣って心配するわ。
お義父様はご存知でしょうね。でも、駆け落ちだけでも心を痛めていらっしゃったから、その後のことまで聞きにくい。
家令のバセットは知っている可能性が高いわ。きっと気をつかい過ぎることもなく、心を痛めすぎることにもなく、教えてくれる。ただし、なぜ私がそれを聞くのか、そこを考えるでしょうね。
ルーファス様は、お義父様がご存知ならたぶんご存知ね。でも、もしも、この領地のためなら私と離婚すると、そう答えられてしまったら私は……。
待って。すべて、推測よ。私の怖れからくる推測だわ。
とにかく確かめてみなければ。
確かめるのが怖くても、それでも確かめられるところまでは。
今日、ルーファス様はお義父様と早朝から外出中。
昨晩ほとんど眠れなかった私は、眠いどころか眼が冴えている。
最近は使用人の動きも、だいぶ分かってきた。だから館の廊下を歩いていれば、見つけられる。
「バセット、ちょっといいかしら。」
呼び止めれば、バセットが礼儀正しくこちらを向いて一礼する。
「奥様、お呼びいただければ、参りましたのに。」
そうしたいけれど、そうもいかないのよ。近くに誰もいないことを確認して、私は声をひそめる。
「内密な話なの。」
目を見張ったバセットが、それでも落ち着いて答える。
「なんでございましょうか。」
「皆、私の前では気をつかって話さないから、少しばかり聞きたいの。」
それだけで、バセットは内容に見当がついたようだった。
私は両手を組んで、視線をそらす。窓の外を見ているふりをする。
「あの人、ユースタス様が今どうされているか、知っている?」
「大旦那様から、少し聞かされております。」
「それは、私が聞いても良いことかしら?」
「特に口止めはされておりません。奥様なら問題ないかと。」
バセットの声は落ち着いている。私は手をぎゅっと握り締める。
「あの人は、戻ってくるのかしら?」
「今の時点で、そのような話は出ていないようでございます。奥様が気にかけられることは、何もないかと存じます。」
私は大きく息をつく。
「ありがとう、話してくれて。」
バセットに向き直れば、家令は物柔らかな仕草で一礼した。
私室に戻り、独りソファーに座る。
今、あの人がこちらに戻る予定はないらしい。これは良かった。
あの人のことで、私が気にかけるようなこともないらしい。これも良かった。
でも、結局これでは、私の不安は解消されないのよ。
今、あの人がこちらに戻らなくても、これからは?
私はソファの上で膝を抱える。
幸運とは、手に入れると怖くなるものでもあったのね。
それを失う怖れも、ついてくるものだったのね。
私は欲深いかしら。手に入れた幸運を手放したくないと、駄々をこねる愚かな娘かしら。
それでも私は、今の暮らしが続くようにと願わずにいられない。
ルーファス様と共にある、レイウォルズでの暮らしが続くようにと。
何よりルーファス様と一緒にいられるようにと。
私はそう、願ってしまう。
けれど、もしもルーファス様が私と離婚したいと願うなら、私はその意思を尊重するべき?
それは苦しい、考えただけで苦しい気持ちになる。
それでもルーファス様の望みが、領地のためなら私と離婚するであるならば。
私は、私の願いを知ってほしい。ルーファス様のそばにいたいと。あなたと一緒にいたいと。
ああ、でも。と、私はさらに想像してしまう。
もしもルーファス様が、私とあの人との結婚を願ったら?
それはムリ。
それでもルーファス様と離婚することになったら?
私はあの人と結婚させられ、ルーファス様は私ではない誰かと再婚するかもしれない。たぶんする。ルーファス様はきっとその方を大切にする……。
やっぱり私は欲深い。妄想だけで、もやもやとした嫌な気分になった。
そうね。私の不安は止まらない。ルーファス様の望みを確認しない限りは。
それがどれだけ、怖くても。
お義父様とルーファス様がお帰りになったというので、出迎える。そこでルーファス様をお茶にお誘いしようとしたけれど、お二人とも忙しそうにお義父様の書斎に入られてしまった。
とりあえず私はほっとする、まだルーファス様の気持ちを聞かずにすんだから。
次のチャンスは晩餐前。今日はお義父様とルーファス様と三人で晩餐の予定だから、その前の仕事が終わった頃を見計らい、話す時間をつくろうと画策する。
晩餐の少し前にルーファス様の書斎に行けば、ちょうど従者のアントニーが出てくるところだった。アントニーは書斎のドアを開けようとしたけれど、聞いてみればルーファス様はまだ仕事中とのこと。
私はにっこり笑って私室に戻った、とりあえずほっとして。まだルーファス様の気持ちを聞かずにすんだから。
次のチャンスは晩餐後。階段を上がり二階の部屋へ、いつもならルーファス様と共に歩くけれど。今日、ルーファス様はお義父様とまた書斎に向かわれてしまった。
もちろん私はほっとした、まだルーファス様の気持ちを聞かずにすんだから。
私室に戻って、また独りソファに座る。
私、何をしているのかしら。
でも、怖い。
不安は解消されない。不安は止まらない。ますます怖くなる。
それでも、聞きたくない。怖い。そしてさらに不安になる。
困ったわ。これ、どうしよう……。