政略結婚が、恋になるまで

38.不運と幸運


 雨が降っている。
 四阿を雨の糸が包み込む。
 雨音が静かに満ちていく。

 足音がした。二人してそちらを見れば、傘をさしたカーライルだった。
「お話し中、申し訳ございません。旦那様、緊急の連絡がきております。」

 ルーファス様が苛立ちを込めてカーライルを睨む。
「後だ。」
 カーライルが静かに繰り返す。
「緊急ですが、よろしいですか。」

 ルーファス様が苛立ちを抑えるように立ち上がると、私の左手を取り指輪に口づけた。
「シェリル、本当に申し訳ない。」

 二人の姿が庭の小道に消える。
 その姿を見送って、私は大きく息をついた。

 信じられない。
 あの日、不幸と同時に幸運もあった。私が気づかなかっただけで。
 ええ、気づかなかったけれど、それは私の幸運になった。
 
 いいえ、それだけじゃないわ。
 もし、あの日の私が幸運でもあったなら。
 もしかしたら、婚約者だったあの人のあの台詞でさえ、私にとって運が良かったのかもしれない。
 いいえ、あれも確かに幸運だったのだと。今なら、それがわかる。

 “いっそ、人買いにでも売ってしまおうか。それとも、呪いの生贄にでもしてしまおうか。
 ああ、事故に見せかけて殺してしまうってものいいよな。それより魔獣に襲わせるほうが簡単か。”

 もしあれを聞かないまま結婚式になっていたら、花婿駆け落ちの知らせを聞いていたら、私はきっと動揺していた。絶望に近いほど動揺していた。
 情けなくて、不甲斐なくて、私にはここまで価値がなかったのかと。
 そしてきっと、あの人のことを恨んでいた。恨んで、重くどろどろした気持ちでいっぱいになっていた。

 そんな気持ちのままではきっと、ルーファス様の気遣いは分からなかった。
 もう結婚とか何もかもが嫌だと思っていた。
 丁重に接してくれても、使用人の誰もが私をあざ笑っているように感じたに違いない。
 ルーファス様が私を大切にしようとしてくださることも、憐れまれているからだと惨めな気持ちになったかもしれない。
 私がそんな態度ばかりしていたら、ルーファス様も私に嫌気がさしていたかもしれない。
 ここでの暮らしは、ただ辛くて苦しい、そう思うだけだったかもしれない。

 でも、そうはならなかった。
 だってあの時から結婚式までの間、私はあの人と結婚したくないと思った。
 私は心底、そう思った。
 心底、そう願った。

 願ったことで、私は変わった。

 だから、あの人が駆け落ちしても、私には嬉しいだけだった。
 結婚式でのルーファス様の気遣いが、有難いと思えた。ルーファス様に好意を感じた。
 奥様というものになっても、自分にできるやり方で何とかやっていこうと思えた。
 使用人の皆が私を尊重してくれているのも、気づくことができた。
 ルーファス様が私を大切にしようとしてくださるのも、よく分かった。
 ここでの暮らしが穏やかで幸せだと、そう感じることができた。

 私は幸運だわ。
 間違いなく、幸運だわ。

 でも。これを言ったら贅沢なのかしら。
 あの三日間は苦しかった。本当に苦しかった。苦しみたいわけではなかったのに。
 でも、この苦しさがなければ、私は変われなかったのかもしれない。
 でも、やっぱり苦しいのはイヤなのだけど。
 もしかしてあれは神様の粋な計らい、みたいなもの?
 神様が私の人生にふりかけたスパイス、みたいな?

 それなら、もっと早くにルーファス様と出会わせてくれたら良かったのに、そう思ってしまうけれど。
 いえ。
 いいえ。
 それだと私は、もっと苦しかったかもしれない。
 婚約者だったあの人との関係がこじれたもので、その上でルーファス様に出会ったら、私はきっと惹かれるのを止められない。
 でも子爵である父が、領主の後継者でもないルーファス様との結婚を許可するとは思えない。
 だから、もっと苦しかったに違いない。

 やっぱり私は幸運。
 偶然と偶然と、それぞれの思惑が混ざり合って、結婚式当日のあの状況が出来上がった。
 私にとって、これ以上ないほど幸運な状況が。


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