政略結婚が、恋になるまで
40.変化
翌日、ヘレンに手伝ってもらい朝の支度をしている最中、キャシーが伝えに来た。
「旦那様が朝食を一緒にとのことです。」
身支度を終えていつもの部屋に行けば、手紙を読んでいたルーファス様が顔を上げて穏やかに微笑んだ。
「おはよう、シェリル。」
「おはようございます、ルーファス様。」
私も答える、恥ずかしさと嬉しさが入り混じった気持ちで。
雨が上がって良い天気だと、そんな話をしながら朝食をいただく。それから食後の紅茶も。その後は仕事で急ぐからとルーファス様が先に席を立った。お茶の時間にまたと言って、私の手を取り指をからめ、頬に軽くキスをして。
私の中で、恥ずかしさと嬉しさと戸惑いが入り混じる。
これでは政略結婚ではなく、単なる恋愛結婚の新婚さんになってしまうのだけど。いいのかしら、これ。
朝食の後は、いつものように散歩。ゆっくり庭を歩いて四阿まで行く。いえ、やっぱり来るんじゃなかったかしら。
昨日、あの後、ルーファス様に四阿で抱きしめられた。あの時は恥ずかしさよりも、ただそうしていたい気持ちでいっぱいになった。でも今それだけでなく思い出してしまった、ルーファス様の想いを表すような腕の強さとか。
思い出せば恥ずかしくなる。今までルーファス様が私に触れるときには、丁重さと親しさは込められていても節度があった。それが。
「奥様!バセットさんとエーメリーさんが後でお話があるそうです。」
とキャシーが呼びに来た。
「何かしら?」
と聞けば、キャシーが訳知り顔でうなずいた。
「秋の舞踏会のことだと思います。そろそろ準備を始める時期ですから。ヘレンさんも新しいドレスをと張り切っていました。」
……とうとう、この時期が来てしまうのね。
舞踏会の準備は、まず日にちの決定、招待客の選定、招待状を書いて送付、楽団の手配に、料理長と何種類もの料理やデザートを決め、臨時の使用人を採用し、それから、それから、それから。準備の説明だけで、午前中が終わった。
午後はさっそくヘレンから、ドレスのパターンを何種類も見せられ、今の流行について説明を受けた。ついでに秋冬用のほかのドレスや室内着も注文しましょうと。
お茶の時間、へとへとになって椅子に座っているとドアが開く。その姿を見ただけで私は嬉しくなった。
「お帰りなさいませ。」
「ただいま。」
とルーファス様が私の手を取り、手のひらに軽くキスをする。
「シェリル、今日は疲れましたか?」
そう聞いてくれるルーファス様の眼差しには、大切とそれ以上の何かが込められいて。今までと違ってやはり戸惑う。
「シェリル?」
「はい、あの、舞踏会の準備の段取りについて、説明を受けました。」
「そうでしたか。確かに、その時期ですね。」
なぜか、ルーファス様の眼差しが柔らかくなった。
「あなたはきっと努力しようとするでしょう。だから、あえて僕はこう言います。
バセットやエーメリーに任せられるところは、任せてください。」
ふっと気分が軽くなるのが分かった。もちろん、ほとんどをバセットとエーメリーに任せるしかないのだけど、それでも。
その後は、ルーファス様が仕事の途中見かけた柵から出て道から動かなくなった大きな羊とか、たわいのない話をしながら、お茶の時間を過ごした。
ルーファス様は書斎で仕事があるとのことで、二人で部屋を出ればアントニーが待っていた。
「旦那様、スランから急ぎの手紙が届いています。」
一瞬、ルーファス様の反応に間があった気がした。
「わかった。」
短く答えたルーファス様が指示を出す。
「カーライルを書斎に、伯父上には後で行くと伝えてくれ。手紙を出すからその用意を。」
「かしこまりました!」
勢いよく返事したアントニーが、訳知り顔でうなずいた。
「ところで旦那様、浮かれてますねえ。
もちろん俺はスゴイ良かったと思ってますけど、奥様とのことが丸く収まって。」
ルーファス様がアントニーを冷ややかに見る。
「今すぐ取りかかれ。」
「わかりました!」
あっという間に走っていったアントニーの後ろ姿に思う。浮かれるって、そんな大げさな。
「アントニーは元気ですね?」
と隣を見上げれば、ルーファス様は片手で顔を覆っていた。その頬が赤いような。
……私がルーファス様を好きなことは、ルーファス様にとって浮かれるほどのことなの?嬉しいのは私のほうだと思うのだけど。
そして、どうしてこうも周りに筒抜けなの。
夕方、今日の聖水作りを終えた私のところに、ルーファス様が誘いに来た。晩餐の前に散歩をしようと。
夕暮れの庭を二人で歩く。ルーファス様の穏やかな雰囲気に、私もまた穏やかな気分になる。何も話さなくても、ただ一緒にいるだけで気持ちが満たされていく。
木の下でルーファス様が足を止めた。私も足を止める。
ルーファス様が一歩私に近づく。私は少し首をかしげる。
「シェリル……。」
呼ばれると同時に、ゆるく抱き寄せられた。
ええと。ええと。私は混乱する、誰か見ているかもしれないし、誰も見ていないかもしれないけど。
けれど、でも、ええと。
ルーファス様の腕の力が少し強くなる。
「嫌ですか?」
「誰かに、見られていたら。」
「誰もいません。嫌、ですか?」
首を振った。私が嫌だと言えばきっと離れてくれる。でも、それはしたくない。
「シェリル、慣れてください。」
その言葉は、ルーファス様の余裕のように聞こえた。慣れない私に合わせるからと、そんなふうに。
腕の力がもう少し強くなったかと思うと、顎をすくわれる。
やさしく唇が重ねられた。
ルーファス様に触れられることが増えた。指とか、手とか、頬に、肩とか。
口づけも、指先、手のひら、頬に、唇、時には手首とか。
抱きしめられることも、増えた。
慣れてくださいと、ルーファス様は言った。
確かに、少しずつ慣れることはできると思う。
でも、どきどきすることには慣れないとも思う。
それとも。
もしかして。
もしかして。
言外に、初夜をしましょうと、ほのめかされているのかも!?
聞けない、当然でしょ。違っていたら、恥ずかしい。合っていたら、なおさら恥ずかしい。
そんな数日後。
今のところ浄化の必要はなさそうで、ルーファス様は昼過ぎに館に戻られて仕事をされている。これなら大丈夫そうと書斎にお茶のお誘いに行けば、ルーファス様が喜んで迎えてくれた。カーライルがすっと一礼して部屋を出る。
ルーファス様の眼差しが柔らかくなる。
「シェリル、舞踏会の準備はどうですか?」
「初めてのことばかりで。」
そんな会話をしながらソファに並んで座れば、ルーファス様が私の手を取り指先に口づけた。私はやっぱり慣れない。けれどルーファス様はそんな私の表情を分かったうえで、もう一度口づける。
……恥ずかしい、慣れない、それでも嬉しい。
「そうだ、フォレット商会に寄った際、あなたにおすすめの本が入ったと、そんな話を聞きましたよ。」
「気になります。セルマさんのおすすめですか?」
そこでカーライルが部屋に入ってきた。お茶の支度ではなく、知らせを持って。
「旦那様、採集場に小型の魔獣が出たと今、報告が。すでに冒険者ギルドのほうにも通達が行っています。」
さっとルーファス様が立ち上がった。
「シェリル、この埋め合わせは今度、必ず。アントニーは?」
即座にカーライルが答える。
「馬の用意を、すぐ出発できます。」
ルーファス様が部屋を出ていく。その背中を見送る。きっと埋め合わせはしてくださるのだと思う。けれど、さみしく感じる。
「奥様、こちらにお茶をお持ちしましょうか?」
カーライルが気をきかせて言ってくれる。ふと思いついて、私はそのまま書斎に居座ることにした。
一度聞いてみたいと思っていたこと、ルーファス様では私に気をつかって話しにくそうなこと、けれどカーライルなら話せることを。
用意されたお茶のカップを手に、私は軽い調子で聞いてみる。
「そういえば、ユースタス様は魔獣退治をされていたの?」
控えていたカーライルの表情がわずかに変化して、すっと元に戻った。
「されていました、休暇でこちらにお戻りのときなどは。ただ魔力量が非常に多く、制御に苦労されておいででした。魔獣を退治にするにも、瘴気を破壊するにも、やりすぎてしまわれて。」
……それは、何となくわかるわ。魔力が少なくても大変だけど、多すぎても大変なのよね。
少なければ使いどころが難しい、多すぎれば必要以上に効果が出すぎてしまう。どちらも困ったものよね。
カーライルが続ける。
「特に、珍しく大型の魔獣が出たことがありまして。最終的にユースタス様が魔獣を仕留めたものの、仕留める際の被害も大きくなってしまいました。
その際、魔石の採集場が打撃を受けたため、かねてより旦那様が検討されていた新たな魔石の採集に、予定より早く踏み切ることになりました。」
だからかもしれない、お義父様が新たな魔石の販路が必要になったと言われたのは。だからかもしれない、お金が欲しいうちの子爵家はもちろん、ユースタス様の方も婚約解消ができなくなってしまった。
カーライルが懐かしそうに続ける。
「旦那様は大学を卒業されてから二年の間に、魔石の採集、保管から販売までいろいろ改善を図られていまして。新たな魔石もその一環で、領地の収入源にならないかと検討されていました。
私が大旦那様から命じられて旦那様付きの執事となって二年、旦那様はずっとこの領地のためだけに毎日を過ごされているように見えました。」
ルーファス様の言葉を思い出す。僕にとってこの領地は大切で守りたいと。ルーファス様はそのとおりに行動してこられたのね。
カーライルがふっと表情をゆるめた。
「ですが、結婚して我が主は変わりました。前より生き生きとしていらっしゃいます。理由の一つは間違いなく、奥様とご結婚されたからでしょう。ですが、それだけではございません。
魔石に関わることだけでなく瘴気の件など、大旦那様の仕事の補佐も少しずつ増やされています。以前の旦那様に不満がおありのようには見えませんでしたが、今は明らかに充実していらっしゃいます。」
私は、結婚式で会ったときからのルーファス様しか知らない。その話が確かならば、それは。
カーライルがカップの隣に、チョコレート三粒を乗せた小皿を置く。
「旦那様は領主の甥としてご不満がなくとも、次期領主としての役割も果たされるようになり、私の眼から見て勝手ながら、やはり領主としての適性がおありだったと思われましたので。
ただそれとは別に、私は旦那様の結婚相手が奥様で本当に良かったと思っております。旦那様の幸せそうなお顔を見る機会が増えましたので。
申し訳ございません、奥様。執事が出過ぎたことを申し上げました。」
「いいえ、話してくれてありがとう。」
ちょっとした質問がここまでの話になるとは思わなかったうえ、ここまで話したカーライルの意図を計りかねているけれど。領主となるルーファス様を支えてほしいということなのかも、しれないけれど。
ユースタス様の駆け落ちによってもたらされたものが、私の幸運だけでなく、ルーファス様にとっても幸運であったなら、本当に良かったと思うけれど。
私と結婚することでルーファス様が本当に幸せなら、良かったと思うけれど。……何か頬が熱くなったので、慌てて紅茶を飲んでごまかした。
カーライルがさらに続ける。
「旦那様とユースタス様は、決して仲が悪いわけではありませんでしたが。
年が近いので、いろいろ比べられていらっしゃいました。はっきり言いますと、主にユースタス様の出来の悪さで。」
……出来が悪い。その言葉はむしろ私について言われているようで、居たたまれない気持ちになる。
「ユースタス様はレイウォルズを大事に思っていらっしゃいましたが、何と申しますか、空回りで。旦那様のほうが的確なため余計に、周りにそう思われてしまう状態になれらていました。
ユースタス様が大旦那様を目標として、良き領主になりたいと望まれていたのは、旦那様はもちろん近くにいる者なら分かりましたが、なかなか上手くいかず。成果を焦られるものだから、悪循環に。
ユースタス様のそのご様子は、旦那様には少々頼りないものに映ったようです。領地がこの先どうなるかと考え、行動せずにはいられないほどに。そうして旦那様がサポートに動かれるほど、ユースタス様は立場がなくなり。」
私が貴族の生活に馴染めなかったように、ユースタス様もまた次期領主としての暮らしも立場も、上手くいかなかったのかもしれない。いえ、まさか。それとも本当に、上手くいかなかったのかしら。
カーライルが空になったカップに紅茶を注ぐ。
私はもう一つ、話題を振ってみることにする。
「そういえば、ルーファス様がユースタス様の駆け落ちを画策されたそうね?」
カーライルがにこりとした。
「旦那様から、その件について奥様にお話になったとお聞きしております。
それには私も旦那様の指示を受けて関わっております。本気になった我が主の凄味を見させていただきました。」
カップを手に取り紅茶をいただく。再びカップを置けば小さく音を立ててしまった。
「そういえば、ルーファス様は大丈夫かしら?」
カーライルが有能な執事らしい調子で答える。
「旦那様からもお聞きになられていると思いますが、討伐はうちの護衛や冒険者に任せます。迅速なアフターケア、怪我人の治療搬送の指示や採集場の保護、今後の対策のために出向かれていますので。まず危険なことはございません。」
そうよね、今日はお茶の時間に知らせが来たけれど、今まで私が知らない時もきっとあった。でも、そういうものだと理解しても、胸がざわつく。
そのざわつきは、晩餐前にルーファス様が戻られたことでおさまった。自室でソファにもたれてほっとしていると、ドアをノックする音。
「どうぞ。」
と声をかければ、シャワーを浴びて着替えられたルーファス様だった。慌てて立ち上がると、すぐこちらにきたルーファス様にまたソファーに戻されてしまった。そんな私の隣にルーファス様も座る。
「シェリル、心配させてしまいましたか?」
「心配、しました。あの、大丈夫でしたか、皆も?」
「僕は大丈夫です。今回は怪我人もいません。採集場への被害もほとんどなく。跳ねまわる魔獣だったので、皆泥だらけになってしまったくらいです。」
ルーファス様がそう言って笑うので、私は本当にほっとした。
「シェリル。」
ルーファス様の大きな手が、私の頬を包む。
「あなたが魔獣の出るような暮らしに不安を感じるのは、分からないでもない。
ですが、僕たちにとってはいつものことです。危険なやり方はしません。小型の魔獣でも冒険者ギルドと連携し、十分な対策を取ります。できれば安心してください。」
不安にならないのは難しい。けれどルーファス様がそう言うなら、もう少し安心して待っていようと思う。
ゆっくりうなずけば、待っていたかのように口づけられた。
その後は、ただ抱きしめられて。
慣れない。どきどきして、どきどきして、緊張して。
ルーファス様が耳元でささやく。
「慣れて、ください。」
その言葉は余裕のようにも、あるいはお願いのようにも聞こえた。