政略結婚が、恋になるまで
45.夫の私室に行くまでのいくつかのこと
村からの帰り、夕暮れのなかを馬車が走る。
ただ蹄と車輪の音が繰り返す。
私はきつく抱きしめられていた、共に馬車に乗り込んだルーファス様に。
ルーファス様は無言だった、ただ私を抱きしめて。
私は迷って、でも、ルーファス様の背中にゆっくりと腕を回した。
ルーファス様が小さく息をつくのがわかった。
「……あなたが無事で、本当に良かった。」
こんなに、心配させてしまったの。
「あの、申し訳ありませ、」
そう言いかけ、それはルーファス様の人差し指に遮られた。
その指が私の頬をなでる。
その手が私の髪をなでる。
「僕は後悔していますよ。たとえ館からミルトンまでのいつもの行き先でも、護衛を付けさせるべきだった。あなたを怖がらせたいわけではありませんが。数少ない聖属性持ちの魔法士を狙った誘拐があることは、あなたもご存知でしょう?」
知ってはいるけれど。魔力量が少ない私では誘拐のしがいもないと、思うのだけれど。でもルーファス様は、そうは考えなかった。私は今更ながらに気づく。浄化に行くとき護衛が二人付くのは、そういう意味もあったのかと。
私はルーファス様の胸に顔を寄せたまま、ただ伝えたくなった。
「ありがとうございます。きっと見つけてくださると、思っていました。」
ルーファス様から小さく笑う声がした。
「ええ、見つけ出しますよ、必ず。」
と、ルーファス様がすっと私から離れた。もう少し今のままでも良かったのにと、私はがっかりする。けれどルーファス様はなぜか気まずそうで。
「シェリル、申し訳ない。
先ほど、あいつと手合わせをしたせいで。いやその前も、馬を走らせて。埃っぽいうえに、汗も。」
ルーファス様がやはり気まずそうに続けた。
「ですが、ですが。
もし、あなたがあまり気にならないというのなら、館に着くまで僕に寄りかかってください。」
ルーファス様がためらいながら続ける。
「先ほど抱きしめておいて今更ですが、今の僕が綺麗なあなたに触れるのは、それでも。
突然こんなことになって、シェリルも驚いたのではありませんか?」
ええ、そうね。驚いた。本当に驚いた。
「あなたには、積極的にユースタスと和解する必要がない。話し合う必要もない。
にもかかわらず、不愉快に思う相手と会うよう仕向けられた。」
ええ、そうね。私には会わなければならない理由がない。
でも、ユースタス様の過去に決着がついたのなら、それは私も同じ。
話がすれ違っても、噛み合わない会話でも、それでも言い合えたことは良かった。
いくつかの疑問に答えが出て、私もまた前に進めるから。
ルーファス様がため息をつく。
「それなのにあなたは、わざわざユースタスに便宜を図り、あいつの気持ちまでなだめ、領地のことまで気を回し、さらには場を収めようと。」
ええと、それは違う。少しはユースタス様のために、ヴィオラさんのために、領地のためになったかもしれないけれど。何より私のためだもの。
「それに、僕はまだ怒っていますよ。あなたは何も言いませんが、かなり強引に連れていかれたのでは。ベイリーは、あれは目的のためなら手段を選ばない性質だ。あなたに心理的負担がかかったのではないかと。」
ええと、それは、そうね。本当にどうしょうかと思った。気を張って。気を張って。
元婚約者との会話だって、やはり気を張って。気を張り続けて。
「シェリル、せめて戻るまでは、僕に寄りかかっていてくれませんか。疲れたのなら眠っても。」
「はい。」
そう言って、私はゆっくりとルーファス様に寄りかかった。
すぐさま肩にルーファス様の手がまわされる。
……ようやく、ほっとした。ほっとして、安心して。
眠くはないけれど、目を閉じる。しっかりと私の肩を抱く、ルーファス様の腕を感じながら。
微睡みから覚めれば、馬車が止まったところだった。
ぼんやりと目を開ければ、ルーファス様の声がした。
「寝ていても大丈夫ですよ。部屋まで僕が抱き上げて。」
パチッと目が覚めた。
「あの、大丈夫です。」
「晩餐の時間には間に合いましたが。僕は伯父上に報告もあるので、一緒に晩餐を取ります。
あなたの食事は部屋に運ばせましょうか。」
「あの、大丈夫です。」
「では、晩餐の後、僕の部屋に来てくれますか?」
……そうだった。そんな話だった。
「あの、」
大丈夫では、ないかも。
「ではシェリル、あなたが疲れていなければ、晩餐の後に来てください。」
「……はい。」
晩餐では主に、ルーファス様がお義父様に事の顛末を話した。もちろん、私とユースタス様が何を話したかの詳細はご存じないので、それ以外のことを。
まず、フォレット商会から時間になっても奥様が来ないと連絡があり。そこから、誘拐か、それ以外の事件か、はたまた私の意思か、三つの線で捜索が始まり。ただ、領主館の馬車は目立つので情報はすぐに得られ、その馬車に私が乗っていたという目撃情報もあり、ルーファス様が護衛と共に跡を追ったところ。着いた村でも比較的簡単に奥様情報をつかむことができ、あの宿の主人に確認すればあっさり私だけでなくユースタス様たちもいることが判明し、部屋に乗り込んだということだった。
その後のユースタス様とのやり取りや、何とか領主館に来させるよう説得したこと、私の提案なども話題にのぼり。
最後までじっくり聞いていたお義父様が、ルーファス様をねぎらった。
「あれのことで手間をかけさせたな、ルーファス。」
「いいえ、伯父上。」
ルーファス様が答える。ルーファス様にはお義父様のひとことで十分なようで、満足そうに。
「シェリル。」
と、お義父様が今度は私の方を向く。
「無事で何よりだった。」
その声音は心から私の無事を喜んでくださっていて、私は胸が温かくなった。
「あなたにとって、愚息のことは不愉快なことでしかないと思うが、礼を言う。
あれと話し合ったり、説得や提案までしてくれたとは。」
それは、確かにユースタス様のためでもあるけれど。何より私が、これ以上ヴィオラさんに利用されないためなのだけど。それに。
「私は、ユースタス様に不幸になってほしいと、思っているわけではありませんので。」
なぜか、そんな言葉が出てしまった。
でも、そんな自分に気づいて、ほっとした。
もし、恨みで、憎しみでいっぱいになった私なら、きっとユースタス様の不幸を願っていた。駆け落ちをしたユースタス様もその相手も、不幸になってしまえばいいと。そんな考えに取り憑かれ、きっと呪うようにそれを願ってしまっていた。そう願えば、心はますます恨みでいっぱいになり、私もまた幸せからも穏やかさからも遠ざかり。そうなったとしても、ますます憎しみはつのって。
それはきっと苦しい。毎日が苦しくて、苦しくて仕方ないだろう。一歩違えば、私はそうなっていた。
晩餐の後は、気づけば、どうぞとばかりにルーファス様の部屋に招き入れられていた。
落ち着いた家具のこの部屋は、私の部屋とは雰囲気が違って、などと思う間もなく。
気づけばソファに座らされ、その隣にはルーファス様が。
……。
もちろん、イヤなわけではなくて。ただ、どきどきして。やっぱり、どきどきするでしょ。
晩餐の前に着替えたルーファス様はその前にシャワーも浴びられたようで、私に触れるのをためらわない。今も。
ルーファス様の手が頬に触れる。その指が耳をかすめ、私はどきっとする。
ルーファス様がただ真剣に気づかう表情で、私を見ている。
「ユースタスが、あなたを傷つけるようなことを言いませんでしたか?」
……ルーファス様はこれを気にされていたの。
そうね、人買いに売るだの、魔獣に襲わせるだの、言った人だものね。
「ユースタス様はもうそんなことを言う必要がないほど、充実した毎日を送っていらっしゃるようです。
私もまた、あの時とは違いますから。」
そう、私は変わった。ほんの少しだとしても、私も変わった。
「それならば、良いのですが。」
ルーファス様はまだ気にかかる様子。
「あの、本当に、そんなことはなかったので。」
付け加えれば、ルーファス様がため息をついて苦笑した。
「僕は嫉妬深い夫となって、あなたを困らせたくはないのですが。
あなたがいた宿の部屋の外には、ドアを背にベイリーが立っていました。ベイリーは僕を目にすると、予想より到着が早かった、だが二人の話し合いが終わったところでちょうど良かった、などと言ってくれましたよ。
ですが、妻が元婚約者と会っていたからといって、密室というほどでもないと頭では理解していても……。」
待って、待って。あの会話、もしかしてヴィオラさんには筒抜けだったということ!?いえ、問題はないはず。聞かれて困るような内容ではなかった。むしろ、ヴィオラさんなら馬鹿馬鹿しさのあまり笑うんじゃないかしら。ではなくて!
嫉妬。そのルーファス様の言葉に驚いた。してしまうものかしら、ルーファス様が嫉妬を。
でも、もし逆の立場だったら。ルーファス様とルーファス様の元恋人みたいな人が密室に近い状況で会っていたら、私は。きっと心がざわついてしまう。
「あの、ルーファス様、元婚約者とはただ話していただけで。いえ、話すというより、噛み合わない会話をしていただけなので。」
ルーファス様の手が私の頬を包む。
「シェリル、あなたを疑っているわけではない。僕が狭量なだけです。」
「いえ、ルーファス様が私を疑っていると思っているわけではありません。でも、お話しします。
聞いてもらえますか?」
けれど、ルーファス様はためらった。
「あなたが望むのなら、そうしたい。けれど、話すことであなたがつらくなるようなら、僕はそんなことはさせたくない。
すみません、少し調べさせたんです。ユースタス付きの従者や侍女から、あいつがあなたにどんな行動をしていたかを。」
……………………………………。これは恥ずかしい。床にめりこみそうなほど、恥ずかしい。つまり、私がどれほど情けなくて、不甲斐ないかという話を、よりによってルーファス様に詳細に知られてしまっているということ!?ああ、もう、穴を掘って埋まってしまいたい。
「ごめん、シェリル。あなたがそれほど動揺するとは思わず。」
うつむく私に、ルーファス様のあせった声が聞こえた。
逆に私は、もう知られてしまったものはもうしょうがない、という気分になってきた。失敗は隠すと苦しくなるだけ、暴露したほうがマシだわ。
「ルーファス様、やはり聞いてください。」
そう言えば、ルーファス様は気づかわしそうにしながらも、うなずいてくれた。なので私は、覚えている限りのことをざっと話してみた。その間、ルーファス様はずっとそばで聞いてくれて。
ユースタス様と会話していた時は、深刻な何かを話していた気がしたけれど。今言葉にしてしてみれば、シリアスは半分、残りはコメディだわ。
「シェリル、ありがとう。
ユースタスは単なる未熟な阿呆ですが。あなたについて、もっと知ることができた。」
……そんなものかしら?
包み込むようにルーファス様が私の背に腕を回す。
「僕は、あなたが愛しい。」
……こんな話を聞いても、ルーファス様はそう言ってくださるの。
私の背中をルーファス様の手が優しく撫でる。
どきどきする。
どきどきするのに。体を預けてしまいたくなって、力を抜いて寄りかかった。
ルーファス様から短く息を呑む音がした。
見上げれば、口づけられた。目を閉じる。唇が触れあう。ついばむように何度も。
「シェリル……。」
ルーファス様が私の名を呼ぶ、何か求めるように。
閉じていた目を開ければ、ルーファス様の強い眼差し。
「シェリル、今晩、寝室に来てくれませんか?」
それは、つまり……。意味を理解したら、ピッと背が固まった。
ルーファス様の手がそっと私の髪を撫でる。
「無理強いはしません。あなたが良いと思ったら、来てください。」