政略結婚が、恋になるまで
51.舞踏会の夜は続いて
フロムロウの奥様のところに私を連れて行ったルーファス様は、また後で、という言葉を残して行ってしまった。
その背中を見送って私は思う。ダンスで嫉妬、してしまうものかしら。それ以前に、誰かが私を誘うものかしら。いえ、今は壁の花であったあの頃とは違う。こちらと友好的に知り合いたいとか、こちらの情報を知りたいとか、そういう方が誘うかもしれない。
結婚相手を探す必要がない私は、代わりに奥様方と会話したり、紹介し合ったり、情報交換したりする必要がある。時には駆け引きも。時には紳士方とも。
ああ苦手、めんど……、いやいや、そう言っている場合じゃないわ。レイウォルズのために必要なことよ。と、分かってはいるけど。
とりあえず、フルムロウの奥様とお話しする。ドレスの流行や、会場の様子に飾り付け、喫茶室のメニューまで、晩餐会の時とはまた違った話題をいろいろと。いえ、もっぱら奥様があれは良い、あれはいまいちなど、ユーモアたっぷりに評するのを聞かせてもらっていたのだけれど。しばらくすると奥様がダンスに誘われてしまった。さて、これからどうしたものかと壁際に立っていたら。
クスクスと笑い声が聞こえてきた。それは含み嗤い、嘲る視線。花のようなドレスに身を包んだ三人の令嬢は、毒を持つ蝶にも似て。
「花婿に逃げられた哀れな花嫁が、ようやくお出ましね。」
……ええと、誰だっけ。顔、以前会ったような気もする、初めてな気もする。名前、知っているような気もする、知らなくて当然の気もする。やっぱり、誰?
「 ねえ、逃がした魚は大きかったのではなくて?」
その言い方は、正確ではないわ。魚は自分の意思で出て行ったから、大きくなったのに。
それに、なぜわざわざ貶したいのか分からないけれど、私を貶すことができる箇所は、もうそれくらいしかないのよね。何しろ、哀れな花嫁は新たな花婿にとても大切にされているし。……自分で言って照れるけれど。
そして、どうして名乗ってくれないのかしら。つまり、すでに紹介された間柄ということでいいのかしら。でも、思い出せないのだけど。この場合、名前を聞くわけにもいかないのよね、失礼だし。でも今後のためには、失礼になっても聞いておくべきかしら。いえ待って。私はきっと聞いても覚えられない。ならば、知っているふりをしてやり過ごすのがベターということに。
そもそも、この未婚のお嬢様たちは結局のところ何が不満で、どうなれば満足なのかしら。例えば、私に代わってレイウォルズの奥様になれば満足なのかしら。でも、それは駄目よ。私はルーファス様と一緒にいたいのだから。
かといって。ここにいる未婚の紳士方にはそんな意地悪に歪んだ顔より、もっと笑顔を見せて差し上げたほうが良縁に結び付くと思うわ、なんてアドバイスしたら火に油を注ぐかしら。
他人の不幸を見て嗤えば、自分が幸せになった気になれるかもしれないけれど。それはまやかし。それでは結局、自分の不満も不幸もなくなりはしない、不満なまま、不幸なまま。何だかもったいないわね。私と違って、わざわざ嫌味を言いに来れるほどコミュニケーション能力が高いのに、それを
活かさないなんて。
忍び笑いと蔑む視線と嫌味を前にのんびり考えていたら。
「シェリル。」
とぶっきらぼうな声がした。驚いた、まさかユースタス様から声をかけてくるとは思わなかった。
「ルーファスから伝言だ、もう少し待ってほしいだと。」
見れば、三人の令嬢が頬を染めている。
まあ、そうね。ルーファス様もそうだけど、整った顔立ちに背が高く均整のとれた体つき。ルーファス様はそれを知性と穏やかさで包んでいる。ユースタス様の場合は精悍さと野性味が加わって、冒険譚の主人公みたいだものね。功績も上げて、セルズベリーのご領主にも絶賛されたし。結婚対象ではないけれど、反感は買いたくない、一曲でも踊れば自慢できる人物。
主犯格のお嬢様が一転、たおやかな雰囲気と笑みで近づく。
「ま、まあ、ユースタス様がわざわざ伝言されるなど。」
お見事。その代わり身も、言外にこんな女にと含ませているところも。さあ、ユースタス様はどう出る、と見守っていたら。
「別に。」
との返事。そうね、こういう人だったわね。令嬢の会話の機微など気にしないというか。気にすることができないというか。
肩透かしになってしまったお嬢様が言い募る。
「ま、まあ、ユースタス様は、元婚約者が気に入らないのではと。」
減点、かしらね。自分の優位を保ちたいなら、様子を見た方がいいわ。今は直接攻勢に出るよりも。
ユースタス様が面倒そうに私を見る。誰こいつと言いたげだけど、それを聞きたいのは私のほうよ。
ユースタス様がお嬢様を見下ろす。お嬢様が顔を強張らせた。ええ、分かるわ。愛想も何もない顔で見下ろされると、ちょっとどうしようかと思うわよね。
ユースタス様がやはり面倒そうに、けれど多少かしこまって、周りに聞こえるくらい大きな声で話し出した。
「次期領主である従兄の妻、シェリルのことは尊敬していますよ。
嫁いでくれただけでも、うちには利益がありましたが。
それ以外にも様々な幸運をもたらしてくれた。
レイウォルズは故郷であるから当然ですが、シェリルに対しても俺は支援を惜しみません。」
予想外の言葉に動揺したお嬢様がなおも言い募る。
「ですが、ひどい婚約者に耐えられず、駆け落ちされたと。」
ユースタス様が無表情にお嬢様を見下ろした。その無意識の威圧に、お嬢様方が体を強張らせる。
「あれは皆の合意の上ですよ。なぜかそういう噂になってしまいましたが。」
お嬢様方がそんなの知らないとばかりに動揺している。ええ、かくいう私もそんな真相、初耳だわ。
「あら、あちらでご友人が待っていらっしゃるのでは?」
私がそう水を向ければ、お嬢様方は挨拶もそこそこに退散していった。その途端、
「お前、馬鹿か。言われっぱなしになってんじゃねえ。言い返せ。」
とユースタス様にあきれた顔で見下ろされた。本当にそういう人がお好みなのね。けれども、そう言われても。レイウォルズの利益になるようどう行動するのがベターかという判断がすぐにはできないのよ、まだまだ私には。そんなことより、
「口をはさんでいただき助かりましたわ。私のことを幸運とまで例えていただきまして。」
と感謝すれば、ユースタス様が勝ち誇った顔になった。
「そうだよ、そう。せいぜい感謝しとけよ。
まあ、前も言ったが、一応悪かったとは思ってんだよ。それでもお前は結婚式に来たのに、俺は行かなかったからな。」
「前も言いましたが、その件については感謝しかありませんわ。
ユースタス様、あなたがお選びになった道を、私は心から祝福させていただきたいと思っています。」
なぜかユースタス様は絶句したあと、そっぽを向いた。
「やっぱ、つまんねえ女。」
……やっぱり、この人の言動は意味不明だわ。
そこに、
「ユースタス、久しぶりだ。」
と声をかけてきたのはフルムロウのご領主だった。話し始めた二人から離れると、ヴィオラさんが一人で立っているのに気づいた。というか、目を引かれた。ワインレッドの夜会用のドレスを見事に着こなし、余裕の表情で扇を持つ様はまさに大輪の薔薇。
そう思っているのは私だけではないようで、ヴィオラさんに話しかけたそうな淑女がいるのに気づいた。ユースタス様が今は一介の冒険者であっても、領主の息子であるのは確か。味方になる人がいればとふと思いつき、余計なおせっかいかもしれないとも思いつつ、とりあえず。
「ヴィオラさん、こういった夜会には良く出られるの?」
と話しかければ、ゆったりとした笑みを向けられた。
「ええ、こんなこともありますね。」
私は一言話しておいた方が良いかと、あのことを聞いてみる。
「宿で私とユースタス様の会話を聞かれていました?」
意外なことにヴィオラさんは苦笑した。
「結果的にそうなってしまいしたが、もともとそのつもりはありませんでした。
ユースタスは女性に手を上げるようなことはことはしませんが、万が一奥様に何かあれば、私があの次期領主殿に殺されかねないので、念のため様子をうかがっていました。」
殺され……って、冗談よね?怪訝な表情になってしまった私を見たからか、ヴィオラさんがくすりと笑った。
「一見温厚で常識派に見えますが、次期領主殿は目的のためなら手段を選ばない性格ですよ。」
……確かルーファス様も、ヴィオラさんをそう称していたような。とりあえずヴィオラさんが私とユースタス様との会話の内容について気にならないならそれでいいかと、話題を変えることにした。
「お義父様からお聞きしました。ようやくユースタス様との婚約を承諾なさったとか。」
ヴィオラさんが扇を揺らす。
「ええ、良いタイミングかと思いまして。もっと私に、心酔してほしいところですが。」
……すごいわ。心変わりとか想像しないのかと、私などは一瞬思ったけれど。
「奥様、何か?」
ヴィオラさんのからかうような笑みが向けられる。私は肩をすくめる。
「いえ、心変わりなどは想定されていないようだと。」
ヴィオラさんが艶やかに笑った。
「その程度の男、要りません。」
やっぱりすごいわ、その自信と余裕。
私には真似できない。まだまだ自信も何もない私には。
でも、そうね。私にできるやり方もあるのだった。
貴族の娘として不出来な私は、そこから出たかった。聖属性なんてものがあるから、冒険者になれば何とかなるのではないかと期待した。貴族の暮らしから離れて自分の力で生きていければ、私の欲しかった自信が手に入るのではないかと。けれど、聖属性は上手く活かせず。他の道も見つけることができず。
けれど、幸運にもルーファス様と結婚して、聖属性が役立てられるようになった。不出来な私がそれでも身に付けてきたマナーや教養も、来客と会話をしたり家政を行うのに役立ってくれた。こんな私を受け入れてくれる場所があった。そこでできることがあった。
だから。少しずつ、一歩一歩、積み重ねていく。今までしてきたように、これからも。
私にできることが、小さなことでもできることが、確かにあるのだから。
その時、
「よろしいかしら?」
と二人の淑女が話しかけてきた。フルムロウの令嬢と次期領主の奥様にヴィオラさんを紹介すれば、二人は楽しそうに話しかけ、ヴィオラさんも気取りなく答えている。私もその輪に加わり、スイーツの話題になったのでボンボンショコラの話などしてみる。
そこに、
「妻はおしゃべりに夢中のようだ。よろしければ、私と踊っていただけますか?」
とフルムロウの次期領主からお誘いが来た。
とても、とても、驚いた。まさか本当に誘われるとは。とりあえず何か答えなければ。
「喜んで、ただ私は少々苦手なのですが。」
運よく、ごく友好的な会話で一曲踊り終えることができた。よ、良かった、大丈夫だった、何とかなった。足も踏まなかったし、コケなかったし、会話もどうにか。ほっとしているところに、
「よろしければ、一曲。」
と良く通る声と共に手を差し出された。なんとセルズベリーのご領主だった。疲れたのでと断ることもできない相手。返事は一択しかない。
「喜んで、ただ私は少々苦手なのですが。」
踊るだけでも大変な私だけど、セルズベリーのご領主はダンスが上手で。会話はいつのまにか私の浄化のことになって、質問にも答えて。としているうちに一曲が終わった。ほ、本当に良かった、足も踏まなかったし、コケなかったし。何とか、何とか話せたし。
そこに、
「よろしければ、踊っていただけますか?」
とまたお誘いが来た。驚いて、とりあえず困った。ええと、ええと、誰だっけ……。
そんな感じのことを三回繰り返したらさすがに疲れて、誘いも途切れたので会場の端に並べてある椅子に座ろうと歩き出したところ、テルムステッドの奥様に話しかけられた。年配の奥様方に混ざって話を聞いたり、相槌を打ったり、時に感想を言ってみたり。私と同じように輪に引き込まれたらしい若い奥様と苦笑し合ったり。昨年流行った風邪や、良く効いた薬、今年は寒さが厳しいかもしれないとか、そのために必要な準備、そんな話も出たり。
話題が王都の噂話に変わったところで、かなり疲れたので話の輪から離れることにした。座るところを探せば、会場の端に椅子が空いているのを見つけた。
ゆっくりと歩いて、あと少し、というところで。
「これはずいぶんと、可愛らしい。」
とまた声をかけられた。誰!?
顔、知らない、もしくは思い出せない。名前、わからない、もしくは思い出せない。
「退屈されているようですね。あなたのエスコート役はどこにいったのか、こんなに可愛い方を放っておいて。」
やっぱり記憶にない。お世辞なんてどうでもいいから、名乗って。どうして皆、知ってて当然な態度なの!?
「私も少々退屈していましてね、共にテラスに行きませんか。」
誰だかわからない人が一歩近づく。私は一歩下がる。
人妻を誘わないで欲しい。人妻だと分かっているなら、他をあたって。私からお金を引き出すのは無理よ、いまだに内緒の買い物ができないのだから。
「そんなに恥ずかしがらなくても、少しおしゃべりするだけですよ。」
恥ずかしくないし、おしゃべりはいらない。
誰だかわからない人が一歩近づく。さらに私は一歩下がる。
「こんなに可愛らしい方と会話する機会を、私に与えてくれませんか、レディ?」
先に名乗って、そうすればはっきり断るか、遠回しに断るか決められるから。
誰だかわからない人がもう一歩近づく。さらに私は一歩下がる。そこで背中が何かに当たった。
ウソ、行き止まり!?
「シェリル、」
とルーファス様の声がした、すぐ後ろから。
ルーファス様の左腕が私の腰に回る。そして私の肩に何か触れた感触、まるで口づけのような。
「すまない、待たせてしまった。」
とルーファス様の右手が私の右手を捕まえる。見上げるように振り向けば、私の手はルーファス様の口元にあって、手の甲がルーファス様の唇に触れるのが見えてしまった。口づけを感じてしまった。
さっきの肩も?そう思ったら、頬が熱くなった。
ルーファス様の視線がまっすぐ前を向く。
「僕の妻に、何か?」
「退屈していらっしゃるようだったので、声をおかけしただけですよ。」
余裕の笑みを浮かべるとそれは去っていった。で、結局、誰?
「シェリル、すみません、時間がかかってしまい。」
ルーファス様の腕に引き寄せられる。
いいえ、それよりも。
「ただ、ああいう輩ははっきりでも遠回しでも断ってください。」
ルーファス様の腕が強く腰に巻き付く。
だから、その前に。
「それとも、話すぐらいならと思いましたか?」
ルーファス様の右手が私の右手を包み込む。
そもそも、それ以前に。
「駄目ですよ、決してついていっては。」
ルーファス様の唇が私の指先に触れる。どきりとする。
……ちょっと待って、私は迷子の子どもかしら。
「あの、あれは、誰ですか?」
ルーファス様が一瞬戸惑った顔になり、そして苦笑になった。
「既婚者と火遊びをしたい連中の一人ですよ。ダンベリーの奥方もフルムロウの奥方もうちの晩餐会で話していたでしょう。見目が良いので、あなたも見当がついてるとばかり。あなたに声をかけなければ、僕にとってはどうでもいいのですが。」
そんな話があった気がしなくもない。とりあえず、私にとってもどうでもいい人物であることはわかった。ただ、あの余裕は見習うべき点がある。私は火遊びはしない人妻なの、ほかをあたってと、余裕たっぷりに対応すればよかったのかもしれない。……できるかしら。結局、名前は分からなかったし、顔を覚えている自信もないけれど。
それより、もっと重要なことが。
「あの、あの、ルーファス様、肩に?」
ルーファス様が答える、にっこりと有無を言わせない笑顔で。
「夫が妻に口づけるのに、何の問題が?」
……。
「シェリル、後で僕ともう一曲踊ってくれますか?」
「あ、はい。」
「その前に、食事室で一休みしましょう。五曲踊ったら疲れたのではありませんか。」
「ええ、はい。ええっ、気づいて?」
「もちろんです。それから、何か嫌なことがあったのなら、僕に話してください。」
「それは特に、」
ないと答えようとしたところでルーファス様が小声で言った。
「帰ったら寝室で聞きますから、何でも。」
きっとルーファス様は私の話を聞いてくださるのだと思う、ゆっくりと穏やかに。そう思っただけで気分が楽になって、まだ続く舞踏会も大丈夫という気がしてきた。
だから、もう少し頑張ってみようと思う。
ルーファス様が腕を差し出してくれる。その腕に私の手をかければ。
「やはり疲れていませんか。僕にもう少し寄りかかってください。」
いえ、大丈夫と答えようとして、かなり疲れていることに気づいてしまった。どうしよう。迷って、少し寄りかかってみれば。その揺らぐことのない力強さに安心して。
「シェリル、大丈夫ですよ。ちゃんと支えますから。」
「はい、あの、お願いします。」
そう言って見上げれば、穏やかな笑みが返ってきた。
「さあ、食事室まで行きましょう。」
「はい。」
「こちらの夜会は、デザートのプディングが名物なんです。」
「まあ、そうなのですか。」
「シェリルも、味わってみませんか。」
「それならば、ぜひ。」
そんな会話をしながらゆっくりと一歩ずつ、私はルーファス様と一緒に歩く。
二人で、歩いていく。
その背中を見送って私は思う。ダンスで嫉妬、してしまうものかしら。それ以前に、誰かが私を誘うものかしら。いえ、今は壁の花であったあの頃とは違う。こちらと友好的に知り合いたいとか、こちらの情報を知りたいとか、そういう方が誘うかもしれない。
結婚相手を探す必要がない私は、代わりに奥様方と会話したり、紹介し合ったり、情報交換したりする必要がある。時には駆け引きも。時には紳士方とも。
ああ苦手、めんど……、いやいや、そう言っている場合じゃないわ。レイウォルズのために必要なことよ。と、分かってはいるけど。
とりあえず、フルムロウの奥様とお話しする。ドレスの流行や、会場の様子に飾り付け、喫茶室のメニューまで、晩餐会の時とはまた違った話題をいろいろと。いえ、もっぱら奥様があれは良い、あれはいまいちなど、ユーモアたっぷりに評するのを聞かせてもらっていたのだけれど。しばらくすると奥様がダンスに誘われてしまった。さて、これからどうしたものかと壁際に立っていたら。
クスクスと笑い声が聞こえてきた。それは含み嗤い、嘲る視線。花のようなドレスに身を包んだ三人の令嬢は、毒を持つ蝶にも似て。
「花婿に逃げられた哀れな花嫁が、ようやくお出ましね。」
……ええと、誰だっけ。顔、以前会ったような気もする、初めてな気もする。名前、知っているような気もする、知らなくて当然の気もする。やっぱり、誰?
「 ねえ、逃がした魚は大きかったのではなくて?」
その言い方は、正確ではないわ。魚は自分の意思で出て行ったから、大きくなったのに。
それに、なぜわざわざ貶したいのか分からないけれど、私を貶すことができる箇所は、もうそれくらいしかないのよね。何しろ、哀れな花嫁は新たな花婿にとても大切にされているし。……自分で言って照れるけれど。
そして、どうして名乗ってくれないのかしら。つまり、すでに紹介された間柄ということでいいのかしら。でも、思い出せないのだけど。この場合、名前を聞くわけにもいかないのよね、失礼だし。でも今後のためには、失礼になっても聞いておくべきかしら。いえ待って。私はきっと聞いても覚えられない。ならば、知っているふりをしてやり過ごすのがベターということに。
そもそも、この未婚のお嬢様たちは結局のところ何が不満で、どうなれば満足なのかしら。例えば、私に代わってレイウォルズの奥様になれば満足なのかしら。でも、それは駄目よ。私はルーファス様と一緒にいたいのだから。
かといって。ここにいる未婚の紳士方にはそんな意地悪に歪んだ顔より、もっと笑顔を見せて差し上げたほうが良縁に結び付くと思うわ、なんてアドバイスしたら火に油を注ぐかしら。
他人の不幸を見て嗤えば、自分が幸せになった気になれるかもしれないけれど。それはまやかし。それでは結局、自分の不満も不幸もなくなりはしない、不満なまま、不幸なまま。何だかもったいないわね。私と違って、わざわざ嫌味を言いに来れるほどコミュニケーション能力が高いのに、それを
活かさないなんて。
忍び笑いと蔑む視線と嫌味を前にのんびり考えていたら。
「シェリル。」
とぶっきらぼうな声がした。驚いた、まさかユースタス様から声をかけてくるとは思わなかった。
「ルーファスから伝言だ、もう少し待ってほしいだと。」
見れば、三人の令嬢が頬を染めている。
まあ、そうね。ルーファス様もそうだけど、整った顔立ちに背が高く均整のとれた体つき。ルーファス様はそれを知性と穏やかさで包んでいる。ユースタス様の場合は精悍さと野性味が加わって、冒険譚の主人公みたいだものね。功績も上げて、セルズベリーのご領主にも絶賛されたし。結婚対象ではないけれど、反感は買いたくない、一曲でも踊れば自慢できる人物。
主犯格のお嬢様が一転、たおやかな雰囲気と笑みで近づく。
「ま、まあ、ユースタス様がわざわざ伝言されるなど。」
お見事。その代わり身も、言外にこんな女にと含ませているところも。さあ、ユースタス様はどう出る、と見守っていたら。
「別に。」
との返事。そうね、こういう人だったわね。令嬢の会話の機微など気にしないというか。気にすることができないというか。
肩透かしになってしまったお嬢様が言い募る。
「ま、まあ、ユースタス様は、元婚約者が気に入らないのではと。」
減点、かしらね。自分の優位を保ちたいなら、様子を見た方がいいわ。今は直接攻勢に出るよりも。
ユースタス様が面倒そうに私を見る。誰こいつと言いたげだけど、それを聞きたいのは私のほうよ。
ユースタス様がお嬢様を見下ろす。お嬢様が顔を強張らせた。ええ、分かるわ。愛想も何もない顔で見下ろされると、ちょっとどうしようかと思うわよね。
ユースタス様がやはり面倒そうに、けれど多少かしこまって、周りに聞こえるくらい大きな声で話し出した。
「次期領主である従兄の妻、シェリルのことは尊敬していますよ。
嫁いでくれただけでも、うちには利益がありましたが。
それ以外にも様々な幸運をもたらしてくれた。
レイウォルズは故郷であるから当然ですが、シェリルに対しても俺は支援を惜しみません。」
予想外の言葉に動揺したお嬢様がなおも言い募る。
「ですが、ひどい婚約者に耐えられず、駆け落ちされたと。」
ユースタス様が無表情にお嬢様を見下ろした。その無意識の威圧に、お嬢様方が体を強張らせる。
「あれは皆の合意の上ですよ。なぜかそういう噂になってしまいましたが。」
お嬢様方がそんなの知らないとばかりに動揺している。ええ、かくいう私もそんな真相、初耳だわ。
「あら、あちらでご友人が待っていらっしゃるのでは?」
私がそう水を向ければ、お嬢様方は挨拶もそこそこに退散していった。その途端、
「お前、馬鹿か。言われっぱなしになってんじゃねえ。言い返せ。」
とユースタス様にあきれた顔で見下ろされた。本当にそういう人がお好みなのね。けれども、そう言われても。レイウォルズの利益になるようどう行動するのがベターかという判断がすぐにはできないのよ、まだまだ私には。そんなことより、
「口をはさんでいただき助かりましたわ。私のことを幸運とまで例えていただきまして。」
と感謝すれば、ユースタス様が勝ち誇った顔になった。
「そうだよ、そう。せいぜい感謝しとけよ。
まあ、前も言ったが、一応悪かったとは思ってんだよ。それでもお前は結婚式に来たのに、俺は行かなかったからな。」
「前も言いましたが、その件については感謝しかありませんわ。
ユースタス様、あなたがお選びになった道を、私は心から祝福させていただきたいと思っています。」
なぜかユースタス様は絶句したあと、そっぽを向いた。
「やっぱ、つまんねえ女。」
……やっぱり、この人の言動は意味不明だわ。
そこに、
「ユースタス、久しぶりだ。」
と声をかけてきたのはフルムロウのご領主だった。話し始めた二人から離れると、ヴィオラさんが一人で立っているのに気づいた。というか、目を引かれた。ワインレッドの夜会用のドレスを見事に着こなし、余裕の表情で扇を持つ様はまさに大輪の薔薇。
そう思っているのは私だけではないようで、ヴィオラさんに話しかけたそうな淑女がいるのに気づいた。ユースタス様が今は一介の冒険者であっても、領主の息子であるのは確か。味方になる人がいればとふと思いつき、余計なおせっかいかもしれないとも思いつつ、とりあえず。
「ヴィオラさん、こういった夜会には良く出られるの?」
と話しかければ、ゆったりとした笑みを向けられた。
「ええ、こんなこともありますね。」
私は一言話しておいた方が良いかと、あのことを聞いてみる。
「宿で私とユースタス様の会話を聞かれていました?」
意外なことにヴィオラさんは苦笑した。
「結果的にそうなってしまいしたが、もともとそのつもりはありませんでした。
ユースタスは女性に手を上げるようなことはことはしませんが、万が一奥様に何かあれば、私があの次期領主殿に殺されかねないので、念のため様子をうかがっていました。」
殺され……って、冗談よね?怪訝な表情になってしまった私を見たからか、ヴィオラさんがくすりと笑った。
「一見温厚で常識派に見えますが、次期領主殿は目的のためなら手段を選ばない性格ですよ。」
……確かルーファス様も、ヴィオラさんをそう称していたような。とりあえずヴィオラさんが私とユースタス様との会話の内容について気にならないならそれでいいかと、話題を変えることにした。
「お義父様からお聞きしました。ようやくユースタス様との婚約を承諾なさったとか。」
ヴィオラさんが扇を揺らす。
「ええ、良いタイミングかと思いまして。もっと私に、心酔してほしいところですが。」
……すごいわ。心変わりとか想像しないのかと、私などは一瞬思ったけれど。
「奥様、何か?」
ヴィオラさんのからかうような笑みが向けられる。私は肩をすくめる。
「いえ、心変わりなどは想定されていないようだと。」
ヴィオラさんが艶やかに笑った。
「その程度の男、要りません。」
やっぱりすごいわ、その自信と余裕。
私には真似できない。まだまだ自信も何もない私には。
でも、そうね。私にできるやり方もあるのだった。
貴族の娘として不出来な私は、そこから出たかった。聖属性なんてものがあるから、冒険者になれば何とかなるのではないかと期待した。貴族の暮らしから離れて自分の力で生きていければ、私の欲しかった自信が手に入るのではないかと。けれど、聖属性は上手く活かせず。他の道も見つけることができず。
けれど、幸運にもルーファス様と結婚して、聖属性が役立てられるようになった。不出来な私がそれでも身に付けてきたマナーや教養も、来客と会話をしたり家政を行うのに役立ってくれた。こんな私を受け入れてくれる場所があった。そこでできることがあった。
だから。少しずつ、一歩一歩、積み重ねていく。今までしてきたように、これからも。
私にできることが、小さなことでもできることが、確かにあるのだから。
その時、
「よろしいかしら?」
と二人の淑女が話しかけてきた。フルムロウの令嬢と次期領主の奥様にヴィオラさんを紹介すれば、二人は楽しそうに話しかけ、ヴィオラさんも気取りなく答えている。私もその輪に加わり、スイーツの話題になったのでボンボンショコラの話などしてみる。
そこに、
「妻はおしゃべりに夢中のようだ。よろしければ、私と踊っていただけますか?」
とフルムロウの次期領主からお誘いが来た。
とても、とても、驚いた。まさか本当に誘われるとは。とりあえず何か答えなければ。
「喜んで、ただ私は少々苦手なのですが。」
運よく、ごく友好的な会話で一曲踊り終えることができた。よ、良かった、大丈夫だった、何とかなった。足も踏まなかったし、コケなかったし、会話もどうにか。ほっとしているところに、
「よろしければ、一曲。」
と良く通る声と共に手を差し出された。なんとセルズベリーのご領主だった。疲れたのでと断ることもできない相手。返事は一択しかない。
「喜んで、ただ私は少々苦手なのですが。」
踊るだけでも大変な私だけど、セルズベリーのご領主はダンスが上手で。会話はいつのまにか私の浄化のことになって、質問にも答えて。としているうちに一曲が終わった。ほ、本当に良かった、足も踏まなかったし、コケなかったし。何とか、何とか話せたし。
そこに、
「よろしければ、踊っていただけますか?」
とまたお誘いが来た。驚いて、とりあえず困った。ええと、ええと、誰だっけ……。
そんな感じのことを三回繰り返したらさすがに疲れて、誘いも途切れたので会場の端に並べてある椅子に座ろうと歩き出したところ、テルムステッドの奥様に話しかけられた。年配の奥様方に混ざって話を聞いたり、相槌を打ったり、時に感想を言ってみたり。私と同じように輪に引き込まれたらしい若い奥様と苦笑し合ったり。昨年流行った風邪や、良く効いた薬、今年は寒さが厳しいかもしれないとか、そのために必要な準備、そんな話も出たり。
話題が王都の噂話に変わったところで、かなり疲れたので話の輪から離れることにした。座るところを探せば、会場の端に椅子が空いているのを見つけた。
ゆっくりと歩いて、あと少し、というところで。
「これはずいぶんと、可愛らしい。」
とまた声をかけられた。誰!?
顔、知らない、もしくは思い出せない。名前、わからない、もしくは思い出せない。
「退屈されているようですね。あなたのエスコート役はどこにいったのか、こんなに可愛い方を放っておいて。」
やっぱり記憶にない。お世辞なんてどうでもいいから、名乗って。どうして皆、知ってて当然な態度なの!?
「私も少々退屈していましてね、共にテラスに行きませんか。」
誰だかわからない人が一歩近づく。私は一歩下がる。
人妻を誘わないで欲しい。人妻だと分かっているなら、他をあたって。私からお金を引き出すのは無理よ、いまだに内緒の買い物ができないのだから。
「そんなに恥ずかしがらなくても、少しおしゃべりするだけですよ。」
恥ずかしくないし、おしゃべりはいらない。
誰だかわからない人が一歩近づく。さらに私は一歩下がる。
「こんなに可愛らしい方と会話する機会を、私に与えてくれませんか、レディ?」
先に名乗って、そうすればはっきり断るか、遠回しに断るか決められるから。
誰だかわからない人がもう一歩近づく。さらに私は一歩下がる。そこで背中が何かに当たった。
ウソ、行き止まり!?
「シェリル、」
とルーファス様の声がした、すぐ後ろから。
ルーファス様の左腕が私の腰に回る。そして私の肩に何か触れた感触、まるで口づけのような。
「すまない、待たせてしまった。」
とルーファス様の右手が私の右手を捕まえる。見上げるように振り向けば、私の手はルーファス様の口元にあって、手の甲がルーファス様の唇に触れるのが見えてしまった。口づけを感じてしまった。
さっきの肩も?そう思ったら、頬が熱くなった。
ルーファス様の視線がまっすぐ前を向く。
「僕の妻に、何か?」
「退屈していらっしゃるようだったので、声をおかけしただけですよ。」
余裕の笑みを浮かべるとそれは去っていった。で、結局、誰?
「シェリル、すみません、時間がかかってしまい。」
ルーファス様の腕に引き寄せられる。
いいえ、それよりも。
「ただ、ああいう輩ははっきりでも遠回しでも断ってください。」
ルーファス様の腕が強く腰に巻き付く。
だから、その前に。
「それとも、話すぐらいならと思いましたか?」
ルーファス様の右手が私の右手を包み込む。
そもそも、それ以前に。
「駄目ですよ、決してついていっては。」
ルーファス様の唇が私の指先に触れる。どきりとする。
……ちょっと待って、私は迷子の子どもかしら。
「あの、あれは、誰ですか?」
ルーファス様が一瞬戸惑った顔になり、そして苦笑になった。
「既婚者と火遊びをしたい連中の一人ですよ。ダンベリーの奥方もフルムロウの奥方もうちの晩餐会で話していたでしょう。見目が良いので、あなたも見当がついてるとばかり。あなたに声をかけなければ、僕にとってはどうでもいいのですが。」
そんな話があった気がしなくもない。とりあえず、私にとってもどうでもいい人物であることはわかった。ただ、あの余裕は見習うべき点がある。私は火遊びはしない人妻なの、ほかをあたってと、余裕たっぷりに対応すればよかったのかもしれない。……できるかしら。結局、名前は分からなかったし、顔を覚えている自信もないけれど。
それより、もっと重要なことが。
「あの、あの、ルーファス様、肩に?」
ルーファス様が答える、にっこりと有無を言わせない笑顔で。
「夫が妻に口づけるのに、何の問題が?」
……。
「シェリル、後で僕ともう一曲踊ってくれますか?」
「あ、はい。」
「その前に、食事室で一休みしましょう。五曲踊ったら疲れたのではありませんか。」
「ええ、はい。ええっ、気づいて?」
「もちろんです。それから、何か嫌なことがあったのなら、僕に話してください。」
「それは特に、」
ないと答えようとしたところでルーファス様が小声で言った。
「帰ったら寝室で聞きますから、何でも。」
きっとルーファス様は私の話を聞いてくださるのだと思う、ゆっくりと穏やかに。そう思っただけで気分が楽になって、まだ続く舞踏会も大丈夫という気がしてきた。
だから、もう少し頑張ってみようと思う。
ルーファス様が腕を差し出してくれる。その腕に私の手をかければ。
「やはり疲れていませんか。僕にもう少し寄りかかってください。」
いえ、大丈夫と答えようとして、かなり疲れていることに気づいてしまった。どうしよう。迷って、少し寄りかかってみれば。その揺らぐことのない力強さに安心して。
「シェリル、大丈夫ですよ。ちゃんと支えますから。」
「はい、あの、お願いします。」
そう言って見上げれば、穏やかな笑みが返ってきた。
「さあ、食事室まで行きましょう。」
「はい。」
「こちらの夜会は、デザートのプディングが名物なんです。」
「まあ、そうなのですか。」
「シェリルも、味わってみませんか。」
「それならば、ぜひ。」
そんな会話をしながらゆっくりと一歩ずつ、私はルーファス様と一緒に歩く。
二人で、歩いていく。