氷と花
「最初にわたしがこの屋敷に着いた日に……」
言われた通りふたたび席についたマージュは、スプーンを手に持つ前になにげなさを装って話しはじめた。
「わたしに、書類の整理を頼みたいとおっしゃりましたよね? もう、荷物を片付けるのも終わりましたし、使用人達の顔も覚えましたから、今日はそのお手伝いをはじめたいと思っているんです」
ネイサンは立ったままで椅子を引き、コーヒーが入ったカップに伸ばそうとした手を、途中で止めた。
「無理強いをするつもりはない」
なぜかネイサンは紅茶が好きではなく、朝も昼もコーヒーしか飲まなかった。砂糖も入れない。ひどく苦いはずだが、彼は眉ひとつ動かさず、その黒い飲み物がまるで極上のワインであるかのように、ごくりと飲み干すしながらマージュを見ている。
「無理強いだなんて、そんなふうには思っていません。お手伝いできるなら、喜んで」
正直なところ、ウィングレーンに散歩してみたいと思わせる場所は少なかったし、まだ知人もいない。
なにか時間をつぶせるもの……なにか、フレドリックのことを考えないですむ手仕事があった方が、マージュは救われる。
ネイサンはまだ立ったまま、コーヒーの残りを喉に流し込んでいた。
視線だけは、マージュからひとときも離さない。
「では……朝食の後に、書斎へ来なさい」
マージュはうなずいた。
カップをソーサーの上に戻したネイサンは、ゆっくりとした動作で椅子に座った。凝った花模様がついたポーセリンの食器は、ネイサンの節だった男性的な手には不釣り合いに見えた。
──会話よ、マージュ。会話をするのよ。
「ミスター・ウェンストン、今日の気分はいかがですか?」
自分ができうるうちで、もっとも好感が持てそうな笑顔を顔に貼りつけ、マージュはわずかに首をかしげた。よく考えると、マージュは殿方の気を引いたり、喜ばせたりする術をあまり知らない……。
他の娘達がそういった方法を身につけている頃、マージュにはすでにフレドリックがいて、彼女らのように努力する必要がなかったのだ。
途端に、ネイサンの表情はさらに暗いものになった。