氷と花
「遅れてしまって申し訳ありません。ミスター・ウェンストン」
「思ったよりも早いくらいだ、ミス・バイル。扉は閉めなくていい」
後ろ手に扉を閉めようとしていたマージュを、ネイサンは止めた。反抗をする気はなかったが、不思議に思ってマージュは聞いた。
「なぜですか?」
ネイサンは眉間にしわを寄せ、陰気な声で答えた。
「君の身の安全のためだ」
うなじの毛が逆立ってしまうような、正体の分からない感情のこもった目で見つめられて、マージュは息を呑んだ。いつもこうだ。ネイサンの瞳はマージュを凍りつかせる。同じ屋敷に住み始めて四日目の朝を迎えた今も、マージュはネイサンの笑顔を見たことがない。
なかば吸い込まれるように、マージュは書斎の中に足を踏み入れた。
壁一面の本……。インクと紙の匂い。壁紙は濃い緑を基調に、細い金の線でバロック模様がほどこされた深みのある意匠だった。大きな窓から入る光と、落ち着いた室内の対比が不思議な安心感を与える。
つい今しがた、聞き捨てならないことを言われた気がするのに、なぜか警戒する気分にはなれなかった。本の魔法だろうか。
「たくさん本がありますね」
ずらりと並んだ革張りの背表紙を順番に眺めながら、マージュは夢見ごこちでささやいた。「素敵だわ」
ネイサンは本棚にはちらりとも目を向けなかった。
「なにか読みたければ、好きな時にここへ来るといい。女性が興味を持つようなものは少ないが」
「わたしが? ここの本をお借りしてもいいのですか?」
驚いて背表紙からネイサンに視線を向けると、彼はやはり例の鋭い瞳で、マージュをじっと見すえていた。ただ彼は、心なしか今までよりもすこし穏やかな表情をしているように見える。
「でも、きっと入り浸ってしまうわ。わたしを遠ざけたいのなら、そんなことは言わないほうが身のためですよ」
微笑んだマージュに、ネイサンはなにも答えなかった。
ほんのすこし穏やかになった気がした彼の顔つきは、見る間にもとの厳しいものに戻った。それどころか、怒っているようにさえ見えた。
なにか、失言してしまったのだろうか?
マージュは肩を硬くして身構えたが、ネイサンはついに視線を外して執務机の上を眺めた。ネイサンがマージュから視線をそらしたのは、多分、書斎に入ってきてからこれが最初だ。