氷と花
 マージュは急いで床にかがみこみ、落ちた書類を拾おうとした。
 同時に、ネイサンが椅子から立ち上がる。かがみこんだマージュの真横にそびえるネイサンは、あまりにも大きく、威圧的に見えて、見上げるだけで身震いしてしまいそうだった。背に朝日を浴びた長身の彼は、ビジネスマンというよりも、上着を着た古代の戦士のようで恐ろしくてたまらない。
「ごめんなさい……」
 なんとか絞り出した声は、今にも泣き出しそうな情けないものだった。

 失態を繰り返さないようにと必死で書類をかき寄せるが、その動作はぎこちなく、作業は遅かった。すぐにネイサンがマージュの前に膝を折り、書類を集める手伝いをはじめた。

「だめです、ミスター・ウェンストン、自分でできますから……」
 執務机の下や、絨毯の間にまで滑り込んだ書類を、ネイサンは素早く集めてマージュに手渡した。お互い床の上に膝をつき、高級感のただよう家具の波に溺れるように身を低くしていた。

「謝る必要はない」
 ネイサンは片膝を床につき、もう片方の膝を立ててその上に片腕を置くと、マージュに向かって言った。
 マージュはなにも答えられなかった。
 ただ、渡された書類を胸に抱き、なんとかこくりとうなずく。
 するとネイサンはさっと立ち上がり、マージュに向けて助けの手を伸ばした。慌ててその手を取るマージュを、ネイサンはぐっと力強く引き上げ、まっすぐに立たせる。
 東日が降りそそぐ書斎の中で、ふたりは向き合った。
 ネイサンはしばらく無言で立っていたが、いつしかマージュを残してひとりで執務机の前に移動すると、立ったまま両手を机の上に置いた。
「どうしたら……」
 ネイサンは、彼独特のひどく低くてかすれた声で、ゆっくりとしゃべった。「どうしたら君に、わたしが悪魔ではないと分かってもらえる?」

 一瞬、マージュは自分の耳を疑った。
 そしてそれ以上に、ネイサンの表情が悲しげに曇っていて、マージュは言葉を失った。あの冷徹な灰色の瞳が、まるで冬の狼のように孤独に、なにかへの渇望を持って、マージュを見つめている。
 答えはすぐには出てこなかった。
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