氷と花


「マージョリー・バイル」
 彼はマージュの氏名をゆっくりと発音した。

 低い、低い、バリトンと呼ぶのに最もふさわしい柔らかさとは無縁の声。彼に関する苦手なものは数多かったが、この声音こそが、マージュを一番おびえさせた。もし冥界に王がいたら、きっとこんな声をしていると、マージュは確信さえしていた。

 彼は決して他の者のようにマージュを愛称では呼ばない。

 マージュは立ちすくみ、地獄から下される審判を待つ罪人の心境で、肩を震わせながら彼の次の言葉を待った。

「君はここにいるべきではないようだ」
 マージュはうつむき、なんとかうなずくことに成功した。

 悲しいかな、彼はまったくもって正しかった。マージュはここに来るべきではなかったのだ。華やかで喜ばしい新郎新婦の門出を悲しみの涙で汚す、陰鬱な……元婚約者。
 それがマージュなのだから。

「来なさい、マージョリー。馬車を用意させている。取引の所用でいますぐ帰らなければならなくなった。荷物はすでに運ばせている」

 取引、取引、取引。
 彼はなにか、ビジネス以外に心を動かされることはないのだろうか?

 実の弟の結婚式にも、涙を浮かべて震えるマージュにも……彼には思いやりの心を浮かべることはないらしい。ほかに選択肢がなかったから、マージュはおとなしくうなずいて顔を上げた。
 冷たい灰色の瞳が、じっとマージュを見すえている。目をそらそうにも、体がいうことをきいてくれなかった。

「来なさい」
 彼は、男らしく角ばった曲線を描くあごをしゃくり、再びマージュをうながした。意外にも、彼はマージュを置いて先に行くことはなく、左腕の肘ひじを軽く曲げてその場に立っていた。

 腕を取れ、ということだ。

 それはそうかもしれない……他の人達に見られているかもしれないし、ここでマージュが泣きながら一人で歩いていたら、いかにも体裁が悪い。冷徹な灰色の瞳が、これは計算された礼儀であり、愛情からくる行為ではないと、なによりも雄弁に語っていた。

「はい……ミスター・ウェンストン」
 マージュは彼の腕をとった。
 ミスター・ネイサン・ウェンストンの腕を。

 フレドリックの十一歳年上の兄で、マージュの新しい婚約者であるネイサンの腕は、想像していたのよりずっと力強かった。
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