氷と花

 マージュはうなずき、紙の束を胸に抱きながら長椅子に座った。作業をはじめるために書類を横にどけたマージュの前に、紅茶の入ったカップを持ったネイサンが近づいてくる。
「ありがとうございます……」
 カップを受け取る時、マージュは心の片隅で、また手が触れ合ったらいいのに……と思った。
 しかし、ネイサンは慎重で、指先ひとつマージュに触れなかった。わざとそうしているのだと、すこし不自然な彼のカップの持ち方からすぐに分かる。
 それが、ただ単にマージュに触れたくないがための行為なのか、ネイサンを恐れているマージュへの気遣いなのかまでは分からない。でも、マージュのネイサンに対する印象はほんのすこし変化していた。
 もっと彼のことを知りたいと思った。
 もっと、彼の氷の仮面の下の素顔を、感じてみたい、と。

 マージュが暖かい紅茶をゆっくりとすするあいだ、ネイサンはとっくに彼のコーヒーを飲み干して、手紙を確認する作業に戻っていた。執務机の前に座る彼は、背から太陽の光を浴び、いっそ神々しくさえ見える。

 多分、ふたりはもっと会話をしてみるべきなのだろう。

 マージュがその努力をしようとするとネイサンはいつも扉を閉ざしてしまうけれど、そこでマージュまで心を閉ざしてしまったら、ふたりは永遠に相容れない。それに、こうしてネイサンがマージュを彼の書斎に入れてくれたのは、もしかしたら彼なりの歩み寄りなのかもしれない……。

 とりあえずマージュは書類を整理する仕事に集中しはじめた。
 ネイサンの言った日付はすぐに見つかって、それを順番に並び替えるのは難しくなかった。どうしてこんな単純な作業のために、わざわざマージュを書斎に読んだのだろうと(いぶか)しく思えるほど簡単な役目だ。

 ほんの数分後、
「ミスター・ウェンストン」
 書類の端をそろえながら、マージュはネイサンを呼んだ。「終わりました。確認しますか?」
「ああ」
 手紙から顔を上げたネイサンが、単調な声で答えた。

 マージュはさっと立ち上がり、ゆっくりと執務机に近づいて両手でネイサンに書類を渡した。ネイサンは座ったままなので、マージュの方がすこしだけだが視線が高くなる。上から見下ろすネイサンは、下から見上げるネイサンほど威圧感がなくて、それもマージュの背を押す助けとなった。

「さっき、おっしゃったことですけど……」
 ネイサンは書類を受け取りながら、けぶった瞳でマージュを見上げている。
 しかしなぜか、緊張はしたが、恐怖は感じなかった。
「あなたを……悪魔だなんて思っているわけではないんです。ただ、わたし達はあまり交流がなかったし、わたしも……あんなことがあった後で、あまり明るい気分ではなくて……」

 ギッと音を立てて、ネイサンは座ったまま椅子を引いた。
「そして、わたしはひどく冷たい男だった。君を慰めるどころか、ろくに口を聞きもしないでいる」
 口調は皮肉がかっていたが、ネイサンの表情は真剣だった。マージュは力なく首を振った。
「あなたはわたしを助けてくれました。それだけで、じゅうぶん寛大なご好意です。慰めたりする必要はないんですから……」
「君を傷つけたのは、わたしの血を分けた弟だ」
「それでも、あなたにはなんの責任もありません。わたし……わたしの……失礼な態度をお許しください。あなたの気分を害するつもりはなかったんです」

 要領を得ないことばかり口走っている自覚はあった。
 ただ、今のマージュにはまだ、目の前にいる男性になにを伝えたいのか、はっきりした答えがなかったのだ。許しを乞うているだけなのか、言い訳をしたいのか、なにか願っているのか。
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