氷と花

 返された書類を机上の横にどけたネイサンは、静かに立ちあがった。
 途端に彼を仰ぎ見ることになって、マージュは体を硬くする。しかし、ネイサンの表情は冷たいものではなかった──嬉しそうなものでも、なかったけれど。
「君はまだ……フレドリックを愛しているんだろう」
 そう吐き出されたネイサンの声色は淡々としたもので、答えを求められているようには聞こえなかったから、マージュはなにも言えなかった。
 低い、低い、闇そのもののような声。

 マージュは……まだ、フレドリックを愛しているのだろうか? 分からない。フレドリックに裏切りを告白され、別れを言い渡されて以来、マージュの心はすっかり麻痺して動かなくなっていた。
 恋人であり、親友でさえあった男性を失った痛みは、今も重く胸にのしかかっている。
 ただ、もし……『もし』今、フレドリックが元に戻りたいと言ってくれても、マージュはそれを受け入れられない気がするのだ。一度破られた信頼は、もう取り戻せない。
 そして、信頼できない相手を、愛しているなどと言えるだろうか。
 
 ネイサンは、マージュの沈黙をどう取ったのだろう。強く(こぶし)を握ると、窓の外の灰色の空に視線を移した。
「わたしの言ったことは……気にしないでくれ」
 ぽつりと、そうつぶやいたネイサンの横顔から、マージュは目を離せなかった。沈黙は長く、どちらも動くことができないでいた。

 しばらくすると、ディクソンがふたたび書斎の入り口に現れた。
「ネイサン様、工場の方でなにか問題があるようで、モリスが呼んでおります」
 ネイサンは窓から目をそらしたが、マージュに視線を向けることはなかった。

 まるで故意に無視するように顔を背け、「今、行く」と執事に答えると、足早に書斎の入り口に向かう。
 そしてマージュを残して、なにも言い残さずに書斎を後にした。
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