氷と花


 書斎の入り口はぴったりと閉められていた。
 マホガニーの扉が、まるでマージュという敵を阻もうとするかのように、凛と立ちふさがっている。すくなくとも、その時のマージュには、ネイサンと自分を隔てる木の扉がひどく邪魔に見えて仕方なかった。
 マージュはノックをしなかった。
 荒ぶる感情に任せて勢いよく取っ手を回すと、扉は簡単に開いた。

 書斎の中は、執務机の上にともるひとつのランプだけが光源で、薄暗くて静かだった。一瞬、マージュはここには誰もいないのではないかと錯覚して、拍子抜けして肩を落とした。
 もしかしたら聞き落としただけで、ネイサンはもう二階の寝室へ引き上げてしまったのかもしれない。それとも工場の方へ戻ったとか……。
 落胆し、きびすを返そうとした時、
「マージョリー・バイル」
 暗闇の奥から低い声で呼ばれて、マージュは鋭く息を呑んだ。

 聞き間違えるはずはない、ネイサン・ウェンストンだけが発することのできる、深みのあるバリトン。そして彼だけが呼ぶ、マージョリーの名前。

「ミスター……ウェンストン。ここに、いらっしゃるのですか……?」
 マージュはゆっくりと振り返った。
 なにもないと思っていた暗闇の先に、うっすらと背の高い影が現れる。立て付けの本棚の前に立っていたネイサンの姿が、ランプの光に部分的に照らされ、じょじょに浮かび上がってきた。

 飴色の飲み物の入ったクリスタルの杯を片手に、鷹のように鋭い瞳で、ネイサンは侵入者(マージュ)を射抜いていた。
 いつもは後ろになでつけられている黒髪は、すっかり乱れて前髪がひたいに流れている。クラヴァットははだけて胸の前にぶら下がっていて、シャツのボタンがいくつか外され、胸元がわずかにのぞいていた。普段の彼とは似ても似つかない、廃退的な姿だった。
 これほど気持ちが高ぶっていなかったら、悲鳴をあげて逃げ出してしまったところだろう。
 しかし、なにかが今のマージュを止めた。

「なにをして……いらっしゃるの?」

 ネイサンは口の端を上げて、微笑みに似た表情を作ったような気がした。これほど薄暗くなければ、はじめてネイサンが微笑むところを見れたのかもしれない。しかし闇に沈んだ彼の顔はひどく不鮮明で、表情の機微までは読めなかった。

「『なにをしていらっしゃるの?』」
 ネイサンはマージュの言葉をおうむ返しにした。「いい質問だ、ミス・バイル……わたしもぜひ知りたいところだった。わたしはいったいなにをしているのかな」

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