氷と花
 空気を振動させながら伝わってくる深みのある声色が、マージュのうなじの毛を逆立たさせる。油断していたら魂まで抜き取られてしまいそうな、魅惑的な声だった。
 ネイサンはしばらく、棒立ちになっているマージュをけぶるような瞳でじっと見つめていた。
 ランプの中でくすぶりながら揺れる炎に照らし出され、がっしりとした長身が光と影を(まと)って動く。ネイサンは堕落的なほどゆっくりとした動作で杯を本棚の棚に置くと、静かに近づいてきた。
 革靴が絨毯を踏みしめる音と一緒に、ざらついた荒い呼吸が聞こえてくる。

 マージュは動かなかった。
 動けなかった。

「君は、わたしを悪魔だと思っているわけではないと言ったが……」
 ネイサンは荒々しい呼吸で胸を上下させていた。
 手を伸ばせば触れられるほどの距離まで到達すると、ネイサンは足を止め、小柄なマージュを覗き込むように首をかしげた。
「わたしは……君が、悪魔ではないかと思いはじめている。わたしの心臓を握りつぶして微笑む、地獄からの使者だ」

 マージュはカッとなり、思わず一歩前に躍り出た。
 悪魔だなんて……ひどい。そんな言われ方をするなんて、やはり、ネイサンはマージュの純潔を疑っているのだ。身持ちの悪いふしだらな女だと思って、軽蔑している。
 マージュは深く息を吸うと背筋を伸ばした。

「そ、その誤解について、お、お話したかったんです、ミスター・ウェンストン」
 覚悟はしていたはずだったのに、マージュの声は情けなく震えた。ネイサンはからかうように、わずかに口の端を上げた。
「『そ、その誤解について』? ほう?」

 ふたたび、彼はマージュの言葉をおうむ返しにした。
 おまけにわざと震えた口調まで真似する手の込みようだ。マージュは真っ赤に興奮し、さらに前へ進み、ネイサンに対峙した。

「わ、わたしと、フレドリックの関係についてです。あなたはきっと──」
 その瞬間、いままでの怠慢なゆっくりとした動きから豹変したネイサンの両腕が、がっしりとマージュの首の付け根からほおまでを抱えた。後ずさる余裕も、声を上げる猶予もなかった。苦々しく歪められたネイサンの顔が、息がかかるほど近く、マージュの目の前に突きつけられる。

「次にわたしの前で、その名前を呼んでみろ」

 このひとは、声だけで人を斬りつけることができるのではないだろうか……。そう思えるほど低いネイサンの声色に、その怖いほど抑えられた不穏な響きに、マージュの全身の肌はピリピリと緊張した。

「最後の『K』まで言い切らないうちに、そのお上品なスカートをすべてめくり上げ、下着を破り、わたしのものを君の中に埋め込んでやる。そして覚えておいた方がいい……わたしが君を抱く時、奴のような詩的な優しさは期待できないことを」

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