氷と花
 そんな……。
 悔しさと悲しさにゆっくりと涙があふれてきて、止めるのは難しかった。

 やはり、マージュがネイサンの動きに反応してしまったのは、はしたない行為だったのだ。汚れた女。だからマージュは捨てられる。
 貞操を守れば裏切られ、こうして自ら身を預けようとすれば疑われる。だとしたら、マージュに残された道はどこだったんろう?
 マージュは素肌を隠そうと胸元を両腕で覆おうとしたが、闇にまぎれたネイサンの手がそれを拒んだ。怒りをふくんだ力で、きつく手首を掴まれる。

「わたしは……ただ……」
 ほおに流れる涙を止められないまま、マージュはすすり泣いた。「ただ……どうしていいのか分からなくて……ごめんなさい」

 このまま涙と一緒に床にとけて、物語の人魚姫のように泡になって消えてしまいたかった。
 もう幸せにはなれない。フレドリックはあの花嫁とともにマージュを捨てて、ネイサンはこの暗闇の中にマージュを置き去りにする。そんな気がして仕方なかった。

「フレドリックは……わたしが……身を捧げなかったから……他の女性のところへ行ってしまったの……だから」
 だから?
 泣きながら切れ切れにささやくマージュに、ネイサンは闇そのもののような沈黙を返した。彼がどんな表情をしているのか知ることはできない。

 軽蔑に顔をゆがめているのだろうか。
 あの冷たい灰色の瞳で、マージュを見下しているのだろうか。

 ひとときでも快感を感じてしまった自分の体が、ひどく汚れた、浅ましいものに思えてならなかった。マージュは深くうなだれて、つぶやいた。
「ごめんなさい……」

 腕をつかんでいたネイサンの手が、急にマージュの体を引き寄せる。マージュは驚いて息を呑んだ。そのまま投げ捨てられるのを覚悟したのに……ネイサンがくれたのは優しい抱擁だった。
 マージュを包み込むような、柔らかく、甘い、愛情に満ちた抱擁だった。
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