氷と花
不安げにディクソンの後ろ姿を見つめていたマージュに、ネイサンが顔を向ける。ずっと暗闇で見えなかった彼の輪郭が光に浮かび上がり、マージュは思わず息を呑んだ。
すっかり乱れた黒髪と、はだけた胸元。
顔色は興奮で赤みがかり、息は乱れ、まるで凶暴な野獣と戦った後かなにかようだ。マージュとの暗闇での逢瀬が、ネイサンにこれほどの影響を与えたとは、にわかに信じがたかった。
「君は……寝室へ戻りなさい」
有無を言わせぬ未来の夫の口調に、マージュは無意識にうなずいていた。
「でも、ミスター・ウェンストン、あなたは……?」
自分でも、寂しさが声ににじんでいることを聞き取ることができた。ネイサンはどう感じたのだろう、唇を引き結び、なにかを我慢するように眉間にしわを寄せた。
「わたしは、まだ書斎に残る……」
彼には珍しい放漫な口調でそう言いかけたが、マージュの姿を上から下まで見渡すと、とっさに考えを変えたらしかった。急に硬質で事務的な声になる。
「いや、君を部屋まで送ろう。それから、わたしも自室へ行く」
まるで彼自身に言い聞かせているような、歴然とした語調だった。
ネイサンの掲げたランプの明かりを頼りに、ふたりは廊下を進み階段を上がり、まもなくマージュの寝室の前へたどり着いた。
夜のウェンストン・ホールは誰もが息を潜めているかのように静かだった。ああ、これではきっとマージュのみだらな声は屋敷中に響いていたはずだ。そもそもマージュは、ネイサンの誤解を解くのに成功したのだろうか?
していないのだろうか?
それどころか、さらに誤解を深めたような気さえする……。
ネイサンは部屋の扉の前で、マージュと適切な距離をとって立っていた。
「おやすみ、ミス・バイル」
彼ではない誰か別のひとが発したような、控えめな口調で別れを言い渡される。マージュはネイサンを見上げた。なぜか、このまま離れたくはなかった。
「へ、部屋の中の、ラ、ランプを消してしまったんです。一緒に……中へ入ってくれませんか」
即座にそんな言い訳を思いついてしまった自分に、マージュは心底驚いた。
今夜のマージュはどうかしている。
ネイサンは微動だにしなかった。ランプを掲げたまましばらく扉の前に立っていたが、やがて、マージュのためにゆっくりと静かに扉を押し開いた。
マージュより先に部屋の中に入ったネイサンは、化粧台の上にある火の消えたランプを見つけるとすぐに火を移した。パッと部屋が温かみのある色を放ち、明るくなる。
「では……」
ネイサンは部屋を後にしようとしていた。でも、その動作が普段の彼よりも緩やかであるのも、確かだった。まるで彼も、本当は離れたくないと願っているかのように。
「待って……おねがい、待ってください、すこしだけ」
「ミス・バイル、今夜のことなら……」
ネイサンはわずかにうわずった声で、マージュの言葉を止めようとした。しかしマージュは止めなかった。
止められなかった。
「信じてください。わたしはフレ……あ、あなたの弟と、男女の交わりをしたことはありません。もちろん、他の誰とも」
マージュから顔を背けたネイサンの横顔が、ランプの明かりを受けてきらめく。ネイサンはしばらく床のどこか一点をぼんやりと眺めていたが、ややあって顔を上げ、まだマージュから視線を背けたまま、ささやいた。
「本当に?」
こんなネイサンの声は聞いたことがなかった。
それだけじゃない、今夜のようなネイサンは見たことがない。いつもの完璧なビジネスマンの仮面が薄らいで、傷つきやすい少年のような横顔が、光と影の中に浮かんでいる。
「はい」
マージュは簡素に答えた。
すっかり乱れた黒髪と、はだけた胸元。
顔色は興奮で赤みがかり、息は乱れ、まるで凶暴な野獣と戦った後かなにかようだ。マージュとの暗闇での逢瀬が、ネイサンにこれほどの影響を与えたとは、にわかに信じがたかった。
「君は……寝室へ戻りなさい」
有無を言わせぬ未来の夫の口調に、マージュは無意識にうなずいていた。
「でも、ミスター・ウェンストン、あなたは……?」
自分でも、寂しさが声ににじんでいることを聞き取ることができた。ネイサンはどう感じたのだろう、唇を引き結び、なにかを我慢するように眉間にしわを寄せた。
「わたしは、まだ書斎に残る……」
彼には珍しい放漫な口調でそう言いかけたが、マージュの姿を上から下まで見渡すと、とっさに考えを変えたらしかった。急に硬質で事務的な声になる。
「いや、君を部屋まで送ろう。それから、わたしも自室へ行く」
まるで彼自身に言い聞かせているような、歴然とした語調だった。
ネイサンの掲げたランプの明かりを頼りに、ふたりは廊下を進み階段を上がり、まもなくマージュの寝室の前へたどり着いた。
夜のウェンストン・ホールは誰もが息を潜めているかのように静かだった。ああ、これではきっとマージュのみだらな声は屋敷中に響いていたはずだ。そもそもマージュは、ネイサンの誤解を解くのに成功したのだろうか?
していないのだろうか?
それどころか、さらに誤解を深めたような気さえする……。
ネイサンは部屋の扉の前で、マージュと適切な距離をとって立っていた。
「おやすみ、ミス・バイル」
彼ではない誰か別のひとが発したような、控えめな口調で別れを言い渡される。マージュはネイサンを見上げた。なぜか、このまま離れたくはなかった。
「へ、部屋の中の、ラ、ランプを消してしまったんです。一緒に……中へ入ってくれませんか」
即座にそんな言い訳を思いついてしまった自分に、マージュは心底驚いた。
今夜のマージュはどうかしている。
ネイサンは微動だにしなかった。ランプを掲げたまましばらく扉の前に立っていたが、やがて、マージュのためにゆっくりと静かに扉を押し開いた。
マージュより先に部屋の中に入ったネイサンは、化粧台の上にある火の消えたランプを見つけるとすぐに火を移した。パッと部屋が温かみのある色を放ち、明るくなる。
「では……」
ネイサンは部屋を後にしようとしていた。でも、その動作が普段の彼よりも緩やかであるのも、確かだった。まるで彼も、本当は離れたくないと願っているかのように。
「待って……おねがい、待ってください、すこしだけ」
「ミス・バイル、今夜のことなら……」
ネイサンはわずかにうわずった声で、マージュの言葉を止めようとした。しかしマージュは止めなかった。
止められなかった。
「信じてください。わたしはフレ……あ、あなたの弟と、男女の交わりをしたことはありません。もちろん、他の誰とも」
マージュから顔を背けたネイサンの横顔が、ランプの明かりを受けてきらめく。ネイサンはしばらく床のどこか一点をぼんやりと眺めていたが、ややあって顔を上げ、まだマージュから視線を背けたまま、ささやいた。
「本当に?」
こんなネイサンの声は聞いたことがなかった。
それだけじゃない、今夜のようなネイサンは見たことがない。いつもの完璧なビジネスマンの仮面が薄らいで、傷つきやすい少年のような横顔が、光と影の中に浮かんでいる。
「はい」
マージュは簡素に答えた。