氷と花
「ネイサン」
 マージュがこうして名前を呼ぶと、ネイサンはいつも全身を硬くした。今朝も例外ではない。そのくせ、ミスター・ウェンストンと呼ぶと言い直させられるのだけど。

「イエス、ミス・バイル?」
 白い紙になにかを書き付けていた手を止めたネイサンは、ゆっくりと顔を上げた。ふたりの目が合うと、ネイサンはまた必要以上にじっとマージュを見つめてくる。

 とたんに乱れはじめる鼓動をなんとか抑えながら、マージュは日付順に並べ直した書類を膝の上で整えた。

「終わりました。すべて、日付の順番に」
「ご苦労だった、ありがとう」

 笑顔というには心もとないが、それでも穏やかな表情を浮かべたネイサンは魅力的だ。いつもならマージュはここでネイサンに書類を渡すのだが、今日は長椅子に座ったまま動かなかった。
 ネイサンが眉を寄せる。「どうした?」
「ネイサン、あなたはわたしを、どうしようもない頭の弱い女だと思っているんですか?」
「なんだって?」

 ネイサンの反応は、興味深いほど神妙なものだった。まるで裏切り者に出くわしたシェークスピア劇の登場人物のように険しい顔をして、眉間のしわを深める。

「……なぜ、そんなふうに思うんだ?」
「これです」
 綺麗に端をそろえた書類を持って立ち上がったマージュは、きびきびとした足取りでネイサンの執務机の横に向かって手を突き出した。
「毎日、毎日、わたしが渡されるのは同じ書類です。この屋敷にはいたずら好きの小人がいて、あなたの書類を毎日並び替えてしまうのかしら? それも毎日、どんどん複雑になっていく芸の細かさだわ」

 言葉にならないうなり声を漏らしたネイサンは、座ったまま書類を受け取った。

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