氷と花
 ネイサンはマージュをからかっている。
 ネイサンが、誰かを、からかっている。からかわれたこと自体は怒ってもいいはずなのに、それよりもネイサンの新しい一面を垣間見たことの方が嬉しくて、マージュは微笑み返していた。

「わたしの部屋で……一度、呼んでくれました。あれがいいの」
「ふうん、つまり?」
「わたしの名前を、愛称で」
「つまり、具体的には?」
 おまけに意地悪だ。
 恥じらうマージュを面白がって、言い負かしてやろうと子供のように意地を張っている。こんな彼は……可愛い。

「マージュです。マージュって呼んでください」
 マージュは素直に懇願した。

 ネイサンは一歩だけ──もちろん、彼の一歩はマージュの三歩に相当するけれど──マージュに近づいた。彼は手を伸ばし、ほおのあたりに垂れていたマージュのほつれ毛を一筋取ると、耳の後ろにゆっくりと掛けた。
 ──髪に神経がないというのは、きっと嘘だ。
 触れられたのは髪の先だけなはずなのに、マージュは全身全霊でネイサンを感じた。体中の血が熱くなって、鼓動が高鳴る。

「マージュ」
 ささやくように静かに、しかし低く振動する男らしい声で呼ばれて、マージュは喜びに身震いした。

 それを知ってか知らずか、ネイサンはマージュの耳元にそっと告げた。「君が望むなら、そう呼ぼう……。ただしお勧めはしないよ。初夜まで純潔を守っておきたいなら、おとなしくミス・バイルと呼ばれていた方がいい」
「ネイサン……」
 マージュはため息と一緒にそうつぶやいた。

 いつのまにマージュは変わってしまったのだろう? いままでずっと結婚まで守っていなければと信じていた貞操も、ネイサンとなら……ネイサンが望むのなら、明け渡してしまってもいいような気さえ、してくる。
 胸の躍るような幸福感がマージュを包んだ。

 このままこうして、ふたりは幸せな夫婦になれるのかもしれない。そんな期待が溢れていった。
< 53 / 85 >

この作品をシェア

pagetop