氷と花
「お久しぶりね、ディクソン。今日からまたお世話になります。どうかマージュと呼んでちょうだい?」
「お心のままに」
表向きはディクソンとの会話に集中しようとしていたが、マージュの心の内側はすっかり乱れていた。すぐに離れると思っていたネイサンの手が、いつまでもマージュの手と腰をぎゅっとつかんだままだったからだ。
そんなふたりの姿を見て、ディクソンはなにか勘違いをしたらしかった。
「ご婚約おめでとうございます、マージュ様。屋敷の使用人を代表し、未来のウェンストン夫人を歓迎いたします」
「あ、ありがとう……」
「長旅でさぞお疲れでしょう。部屋を用意してあります。さあ、中へいらしてください」
経験豊富で執事の鏡のようなディクソンは、マージュの複雑な事情について嫌味を言ったり詮索したりはしなかった。ひとまず安堵して、ネイサンの顔を見上げる。
ネイサン・ウェンストンの、氷のような瞳を。
「さあ、来なさい」
と、低い声でうながすと、ネイサンはマージュを連れて玄関に続く階段を登った。
上部が半円状になった幅の広いマホガニーの玄関扉は、たっぷりの漆うるしを塗られたうえに完璧に磨かれていて、正面に立つと自分の顔が映りそうなほど輝いている。マージュは背筋が冷えるのを感じた。
きっとここでは、マージュも完璧でいることを期待されるのだろう。完璧な婚約者、完璧な妻、完璧な母親……マージュはそういったものになるべきだと、ネイサンは思っているはずだ。
ディクソンがうやうやしく開けてくれた扉を、ネイサンの手に引かれてゆっくりとくぐる。
その瞬間、マージュの人生はきっぱりふたつに分かれたのだと思う。
昔の、ほがらかで明るい希望に満ち溢れていた「フレドリックのマージュ」と、今の、冷たく愛のない……事務的で形だけの「ネイサンのマージュ」とに。