氷と花
「先代のポール様と夫人が馬車の事故で亡くなった後は……」
 いつのまにか老執事が先を続けていて、マージュははっとした。

「ネイサン様はあなたのことをとても心配しておりました。先代達にとってはもちろん、あなたは家族同然でしたが、対外的には夫人の話し相手(コンパニオン)ということになっていましたからね。ポール様の遺言でダルトンの屋敷をのぞくほとんどすべてをネイサン様に遺したことが分かってからは特に、フレドリック坊ちゃんがあなたを養っていけるよう、仕送りをかなり増やしておりました」
「ディクソン……」
「おっと、これはさすがにすこししゃべりすぎましたね。失礼」

 ディクソンは膝に手を当て、ゆっくりと立ち上がった。座った後は腰が痛むのか、伸びをするように背を反らしてから、ひと息つくと銀のお盆を抱えあげる。
 そして、しばらくなにかを考えているかのように、じっとマージュを見つめた。
 マージュもディクソンの青い瞳を見つめ返した。

「フレドリック坊ちゃんがあなたを裏切ったことを知った時のネイサン様は……恐ろしかったですよ。あの日は一日中、本当に狂うように怒っていらっしゃいました。そして次の日には、あなたに結婚を申し込むと決められておりました」

 ディクソンはそれだけ言うと、「では」と頭を下げて客間から出ていった。

 ひとり残されたマージュは、しばらく呆然と宙を眺めていた。
 ネイサン……。

 すでに工場へ行ってしまった彼の輪郭を思い浮かべながら、マージュは唇に片手を触れた。そして彼の口づけを思い出した。彼の低い声を。近づくとわずかにコーヒーの香りのする、彼の吐息を。
 ああ……はじまりは甘いだけのおとぎ話ではなかったかもしれない。

 でも、ふたりの未来はきっと愛情に溢れている。

 ──今夜は、たくさん話を聞かせてもらわなくては。
「ふふ」
 温かい想いが込み上がってくるのを止められなくて、マージュはわずかに声を漏らしながら微笑んだ。
 ネイサン・ウェンストン。
 氷の仮面の下に、熱い情熱を隠したマージュの恋人……。
 
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