氷と花
 激しい耳鳴りがして、胃の底から吐き気が込み上げてきて、ネイサンはなにも答えられなかった。

 書斎はしばらくはそのまま静まり返っていたが、ネイサンからなにかを言う気は起きなかったし、言うべき言葉も浮かんでこなかった。『君こそお元気で、ミス・バイル。お幸せに』?
 冗談ではない。

 ネイサンは灰色の空を眺めているふりをやめずに、動かなかった。
 それ以上は誰もなにも言わず、やがてゆっくりとした足音だけが板目の床に響き、誰かが書斎から出ていくのが分かった。かちりと扉を閉める音がして、そして再び沈黙が流れだす。
 ネイサンは(こうべ)を垂れた。

 マージュは行ってしまったのだ……フレドリックと共に。奴の手を取って。ネイサンのことを忘れて。

 書斎にひとりきりになったネイサンは、もう涙を我慢する必要はなくなったことを理解した。
 冷たく流れるひと筋の涙をほおに感じて、静かに瞼を閉じる。ネイサンを呼ぶマージュの幻聴がして、力なく首を左右に振った。

 肩が震える。
 激しく嗚咽しないでいられたのは、もしかしたらまだふたりが広間にいるかもしれないと思ったからだ。こんな体たらくを見られたくない。聞かれたくない。すでに耐えきれないほどの深い悲しみに、触れられたくなかった。

 ネイサンに足らなかったのは、なんだろう?
 もしかしたらフレドリックのように、恥も外聞も投げ捨てることのできる素直さかもしれないと思って、血を流す心を抱えながらたたずんでいた。

「ネイサン」

 ふたたび幻聴が聞こえた。マージュの声だ。雨雲のあいだから漏れる陽の光のような、清閑な響き。

 ネイサンはその儚い幻を求めて振り返った。たとえ幻でもマージュの存在を感じられるのなら、それにすがりたかった。肩を回転させ、執務机を前に向き直る。
 執務机を越えた向こう、来客を迎え入れる空間にマージュの幻は立っていた。問いかけるような瞳をたたえて、両手を前に組んで。

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