薬師シェンリュと見習い少女メイリンの後宮事件簿
第四話 薬師シェンリュは見習い少女と後宮を守りたい
「シェンリュ先生、芽衣が体調不良になってしまったんです。すぐに来ていただけますか?」
後宮を管理しているヨウリンが、慌てた様子でシェンリュの診療所に駆け込んできました。
「わかりました。すぐに向かいます。メイリン、準備が出来次第、彼女の部屋に行きますよ」
「はい、今すぐ準備します」
シェンリュとメイリンは、治療のための薬などを一式用意すると、ヨウリンとともに、ヤーイーの部屋へと向かいます。
ヤーイーは、寝室でぐったりとしていて、見習いのメイリンでも、一目でみて体調が悪いのがわかりました。
「ヤーイーさん、薬師のシェンリュです。大丈夫ですか?」
「ううぅ……」
彼女は、布団の上で仰向けになりながら、ずっとうなっています。とても辛そうで、話すことは出来なそうです。
「なんとか声は出せていますが、会話は出来そうにないですね。ヨウリンさん、彼女がどうして体調が悪くなったのかわかりますか?」
「すいません、私も詳しくはわからないんです。そう言えば、ヤーイーは少し前に珍しいキノコをもらったと喜んでいましたね。彼女はキノコが大好物なんです」
「キノコですか。おそらく原因はそれでしょう。ヤーイーさん、キノコを食べましたか?」
ヤーイーは、苦しそうにしながら、ゆっくりと首を縦に動かしました。
「わかりました。今から身体を詳しく診ていきます。メイリン、ヤーイーさんの身体を起こしますので後ろから支えていてください」
「はい、先生」
シェンリュがヤーイーの上体を持ち上げ、メイリンが彼女の背中側から身体を支えます。
「ヤーイーさん、今からお腹に手を当てますよ」
シェンリュは、ヤーイーのお腹に静かに手を当てて、お腹の動きから彼女の呼吸の状態を確認します。その後、彼女の右の手首に指を当てて、脈を確認しました。
(呼吸が速く、脈が速い。顔色も青ざめている。思ったより状態が悪いな。ん? これは――)
ヤーイーを診察しているシェンリュは、彼女の瞳孔が縮小していることに気づきました。
「メイリン、私が身体を支えるのを代わりますから、彼女の目を確認してください」
「はい、先生、お願いします」
メイリンはシェンリュと交代すると、ヤーイーの目を注意深く覗き込みます。
「先生、瞳の黒い丸が小さくなっています」
「その黒丸は瞳孔といいます。目の黒い部分が縮小しているのは、彼女の頭が毒の影響を受けているからです。よく覚えておいてくださいね」
「はい、先生」
(早めに毒を体外に排出する必要がある。薬を飲ませないと……)
「ヤーイーさん、今から体内の毒を外に出す薬を渡します。なんとか飲めそうですか?」
ヤーイーは首を縦に振ります。
「これが薬です。粉の薬ですが、飲みやすいように水で溶いてあります。無理せず、ゆっくりと飲んでください」
メイリンが手助けをしながら、慎重に薬を飲ませます。ヤーイーはゆっくりと時間をかけて、薬を全て飲み干しました。
「この薬は体内で毒を吸着します。そして、吸着した毒を体外に排出するのです。薬が効くまで、横になって身体を休めていましょう」
シェンリュは再度ヤーイーを寝かせると、身体を横向きにします。
「身体を横向きにしておくと、嘔吐した時に吐いた物が喉に詰まるのを防ぐことが出来ます。しばらくこのままでいてくださいね」
薬の効果で毒を体外に排出したヤーイーは、次第に体調が回復していきました。
シェンリュが彼女に飲ませたのは、大黄という植物の根と木炭を粉にして混ぜたものです。木炭には毒を吸着する効果が、大黄の根には下剤の効果があります。
「先生、大分体調が良くなってきました。本当にありがとうございます」
ヤーイーは、薬の効果で会話が出来るようになるまで回復したので、シェンリュにお礼をしました。
「顔色もだいぶ良くなってきました。もう大丈夫でしょう。念のため、もうしばらくは安静にしていてくださいね」
「メイリン、私はヨウリンさんとお話したいことがあります。あなたは先に診療所に戻って待っていてください」
「わかりました。私は先に戻りますね」
メイリンが部屋から出たあと、休んでいるヤーイーから離れた場所で、シェンリュはヨウリンに話しかけます。
「ヨウリンさん、あなたは本当に強い人だ。トウミ宰相が亡くなってしまったのに、気丈に振る舞っている」
「トウミ宰相が亡くなってから、私はいっぱい泣きました。涙が出なくなるくらい、悲しかったですし、寂しかった。けれど、私は、この後宮が好きなんです。ですから、宰相にこの後宮の管理を任された以上、私は責任を持ってこの後宮を守りたいんです。だから、私がここで投げ出すわけにはいかない。弱音を吐いたり、うなだれていたりしてはいられないんです」
「お話してくれてありがとうございます。あなたの思いを知ることが出来て、本当によかった。私もあなたと同じ気持ちです。大好きなこの後宮を守りたい。お互い、がんばりましょう」
「シェンリュさん、あなたと話せて本当によかった」
突然、ヨウリンがシェンリュに抱きついてきます。ヨウリンの豊満な胸が潰れるぐらい、彼女はシェンリュを強く抱きしめています。そのままヨウリンは、上目遣いでシェンリュに話しかけます。
「すいません、私、もういっぱいいっぱいで、限界なんです。シェンリュさん、しばらくこのままでいさせてもらってもいいですか?」
「大丈夫です、ヨウリンさん。あなたの気が済むまでこうしていてください」
「うわああああん」
優しいシェンリュの声を聞いたヨウリンは感情が抑えきれなくなって、大声で泣き出します。シェンリュは抱きついているヨウリンを支えながら、彼女の頭を優しく撫でました。
「私はあなたに感謝しています。あなたは責任感を持って、この後宮をしっかりと管理してくれている。あなたがいなかったら、この後宮はとても存続はできないでしょう。本当にありがとうございます」
そう話すと、シェンリュはヨウリンを優しく抱きしめ返しました。
◇◇◇
華の王宮の一室でくつろいでいたリーファは本来の姿に戻っていました。彼女の背後で九本の尾がヒラヒラと妖しく揺れ動いています。
「さて、そろそろシェンリュに会いにいきますか」
リーファは、九尾の狐の一族でした。彼女はトウミを唆して陸を滅ぼそうとしていた、シェンリュにとっては宿敵ともいえる存在です。
リーファは人間の姿へ変化すると、黒い中華服を身に纏い、白い仮面をつけます。そして、虹色に輝く鏡の中へと消えていきました。
◇◇◇
仮面を着けた黒服の女性が、シェンリュの診療所にやってきます。
「シェンリュ先生、お話をしたいのですが……」
「あなたは……。メイリン、しばらくミオンの元に行っていなさい」
女性を見た瞬間、シェンリュは彼女を警戒しながら、メイリンに手ですぐに逃げるように合図をしました。
「私の直感があなたを危険だと警告しています。トウミ宰相を暗殺したのはあなたですね?」
「ふふ、いい感覚をお持ちですね。そうです。私が彼を殺しました。おっと、今彼女に出ていってもらっては困りますね。ここにいてもらいましょうか」
女性はお尻付近から白く輝く尻尾を出すと、目にも止まらない速さでメイリンに尻尾を巻き付けて、動けなくします。
「きゃっ!?」
「メイリン!」
メイリンの全身に、白い毛並みの尾が巻き付いてきたので、彼女は逃れようと必死にもがいています。しかし、長く白い尻尾は、彼女の身体に食い込んで、離れません。
「うぅ、動いても動いても、ほどけないです」
「その姿、人外か。メイリンには手を出すな。彼女は関係ない」
「それは私の気分しだいです。とりあえず、私を怒らせないことです、シェンリュ」
仮面の女性は白い尾をメイリンの首に巻き付けました。尻尾は少しずつ、メイリンの首を締め付いていきます。
「うぅ……苦しい」
「このまま彼女の息の根を止めることも出来るのですよ」
彼女は、メイリンをいつでも殺せると脅すかのように、殺気を放っています。
その光景をみたシェンリュは、女性への怒りの感情を必死に抑え込みながら、メイリンを守るために、やむを得ず彼女の言うことを聞くことにしました。
「わかりました。あなたの話を聞きますから、彼女を助けてください」
それを聞くと、女性はメイリンの首から尻尾を外しました。そして、彼女は顔から白い仮面を取り外します。整った顔立ちの女性が、妖しくシェンリュを見つめながら、微笑んでいます。同時にシェンリュは、メイリンに向けられていた殺気が、少しだけ緩んだのを感じました。
「ふふ、今回はあなたに不利な話ではありませんので、ご心配なく。あ、まだ名前を伝えていませんでしたね。私は、人間の姿の時はリーファと名乗っています」
「リーファ、何故あなたはトウミを暗殺したのです?」
シェンリュは、リーファを刺激しないよう、言葉を選んで、慎重に話しかけます。
「ふふ、わかっているくせに。陸を滅ぼすためです。この国はもう必要ないので」
「私も、トウミとズーハオを暗殺する予定でした。だが、あなたとは目的が違う。私は、この国をめちゃくちゃにした二人を殺して、この国を立て直すつもりだったのです」
「シェンリュ、あなたはこの時代の人物ではないのでしょう? だから、陸が滅亡するのを知っていた。違いますか?」
想定外の質問にシェンリュは驚いた顔をしましたが、すぐに冷静な顔を取り戻して、リーファに返答します。
「ええ、その通りです。私は未来からこの時代に来た転移者です」
メイリンは、シェンリュの告白に目を丸くして驚きます。そして彼女には、シェンリュが何を言っているのか、すぐには理解できませんでした。
「ふふ、やはりそうでしたか。そして、あなたはこの時代に来てから何度もシェンリュとしての人生を経験していますね。何らかの方法で時間を繰り返している。おそらく、時の秘術を使いましたね?」
「……そうしてでも、私には守りたいものがあるのです」
「なるほど、よくわかりました。あなたは、陸を守るためにズーハオとトウミを殺そうとしたのですね。ですが、その二人を殺して、国を立て直したところで、陸の滅亡は変わらない。現にトウミはこの私が殺害しましたが、それでも、滅亡する運命は変わらないのです。何故かわかりますか?」
「正直、私にはわかりません。あなたがそのように仕向けるからではないですか?」
「あなたは一番大切なことを見落としているからわからないのです。では、一つ質問しましょう。あなたはなぜ、これから華が陸に侵攻してくるのか、その理由を知っていますか?」
「華の皇帝に領土拡大の野心があるから、侵略するのでしょう?」
「ふふ、まあ、普通はそう考えるでしょうね」
リーファは、シェンリュがありきたりの答えを返してきたので、くすくすと笑いました。
「今、この大陸で急速に寒冷化が進行しているのはシェンリュ、あなたも知っているでしょう? そのせいで、華は今、人が住めない場所になりつつあります。そうなれば、彼らは生きるために南進してこの国に侵攻せざるをえない。華の国の人々は、そこまで追い込まれているのですよ。まだまだ温暖で平和な陸にいるあなたたちは、そんなことはわからないし、知ろうともしなかった。現に、あなたは何も知らなかった」
「そんな、華の国が今、そんな状況になっているとは――」
自分が全く知らなかった事実に、シェンリュは驚きを隠せませんでした。
「だから、華の軍と陸の軍では、士気が違う。華の国の兵士たちは、生きるために、死に物狂いでこの国へと攻め込んできます。そんな相手に、平和ボケしたこの国の兵士たちが敵うと思いますか?」
「……結局、何をしてもこの国は滅びるというわけですか」
シェンリュは、トウミ宰相とズーハオ将軍さえ倒せば運命を変えられると思っていた自分の考えが浅はかだったことを思い知らされて、うなだれてしまいます。
「人間は、運命というものには逆らえません。逆らおうとして異なる結末になるよう行動を起こしても、別のどこかで調整されて、結局はその結末に向かうのですよ」
「私は何度も、この後宮の人々が華の兵士たちに蹂躙され、連行されていくのをこの目で見ています。その後、彼女たちがどのような扱いを受けていたのかも知っています。私は、後宮の女性たちが、華に支配されたこの国で、まるで性奴隷のように、華から来た男たちに奉仕させられているという話を聞いて、心底嫌になったのです。だから、そうなる前に私はこの国を変えたかった。この国をめちゃくちゃにした元凶であるトウミとズーハオを暗殺して、華の国が攻めてくる前にこの国を建て直したかったんです」
「なるほど、あなたはこの後宮の人々を守りたいのですね。確かに、華の軍がここに突入すれば、彼女たちはこの場所から連れ去られて、人間扱いはされないでしょう。あなたはそれを止めたいのですね?」
「ええ、その通りです。そのために、私はずっと計画を練ってきたのですから」
「……ならば、お前が守ればよかろう」
「え?」
リーファが急に口調を変えたので、シェンリュは驚いて思わず聞き返しました。それまでの丁寧な言葉遣いとは違い、リーファは上から諭すような言葉と口調でシェンリュに話し始めます。
「華の国の兵士たちがここに突入する前に、お前が女性たちを連れて、ここから離れればよい」
「簡単に言ってくれますね。それが出来れば苦労は……」
「私が手を貸してやる。お前は私の出した問題をみごと解決したからな。その褒美として、お前の願いを叶えてやるよ」
そこまで話すと、リーファは人の姿から元の白い狐の姿へと変化しました。彼女の背後で、白い九本の尻尾がゆらゆらと妖しく揺れています。
(尾が九本ある。なるほど、あなたの正体は九尾の狐でしたか)
「そのお姿、殷の時代からこの世界を裏から動かしてきた、九尾の狐とお見受けします。今回、同じ時間を繰り返している私が、今までに経験したことのない事件が、立て続けに起こりました。それは、あなたが陸と華に介入してくれたからなのですね。九尾様に協力していただけるなら、これほど心強いことは無いです。今度こそ、後宮を救えるのではと、希望が湧いてきました」
リーファの正体を知ったシェンリュは、彼女にひざまずいて、頭を下げました。そして、覚悟を決めた表情で、狐になったリーファの顔を見つめています。
「お前は何度も時間を繰り返し、失敗しても決して諦めなかった。だから、私と巡り合うことが出来たのだよ。これから、この国の若い皇帝を連れ出して、後宮の女性たちと南の地へ向かうといい。そこで皇帝と新たな国を作り、華に対抗するのだ。それは、お前にしか出来ないことだ」
「わかりました。私が、若き皇帝仔空と、後宮の女性たちを連れて、南へと逃れます。その後、私はシア陛下と、新たな国を作る準備をします。九尾様のお言葉で、私は迷いを捨てることが出来ました。本当にありがとうございます」
「覚悟を決めたようだな。それでいい。君の活躍を期待しているぞ、シェンリュ」
(まあ、君がやらなくても、私がそうする予定だったのだけどね)
リーファは人間の姿へと戻ると、自身の尾を緩めてメイリンを解放しました。そして、彼女は満足そうな顔をしながら、診療所を後にします。
シェンリュはリーファが出ていったことを気にする余裕もなく、すぐにメイリンのもとへと駆け寄りました。
「大丈夫ですか、メイリン」
「はい先生、私は何ともありません」
「それはよかった。怖い思いをさせてしまったね。本当にすまない」
シェンリュは、メイリンを優しく抱きしめました。
「先生、私は先生が何者でも構いません。私は先生の助手ですから、この先どんなことがあっても、先生についていきます」
「ありがとう、メイリン」
「感謝するのは私の方です。私は先生に拾っていただいて、助手にしてもらってから、いろんなことを教えてもらって、助けてもらいました。感謝してもしきれません。だから、いつか先生に恩返しさせてください」
「私はあなたをどこかで子供扱いしていました。ですがもう、立派な人間として成長していた。メイリン、あなたの願いを叶えてあげましょう」
シェンリュはメイリンに顔を上げさせて、彼女の唇にキスをします。
「いいんですか? 先生」
「ええ、あなたの望むままに」
メイリンは、シェンリュにいっぱいキスをし返します。そのまま、二人は倒れ込みました。
◇◇◇
その夜、二人は診療所で眠っていました。
ふと目を覚ましたメイリンは、すでに眠っているシェンリュの横で、彼の寝顔を見ながらつぶやきます。
「先生、私の願いを叶えてくれて、本当にありがとうございます。私は本当に幸せ者です」
次の日、シェンリュは、ヨウリンのもとを訪ねていました。
「ヨウリンさん、あなたは正殿に入ったことがあるとお聞きしました。思い出せる範囲で、内部の様子を教えていただけると助かります」
「ついに計画を実行するのですね」
「ええ、私は、後宮の人々を守りたいのです。そのためには、残念ながら、私だけでは力不足なのです。シア陛下のお力が必要になります」
「わかりました。私たち後宮の女性たちは、あなたについていくことに決めました」
「あなたがまとめてくださったのですね。本当に、ありがとうございます」
「感謝するのはわたしの方です。それで、あの、先生がよろしければ、この前のように私を抱きしめていただけませんか?」
ヨウリンは、目を伏せて恥ずかしそうにシェンリュにお願いします。
「もちろんです。あなたにはとてもお世話になりましたからね」
「ありがとうございます」
シェンリュは、正面からヨウリンを優しく抱きしめました。
(ああ、この感触、たまりません。おかしくなってしまいそうです)
ヨウリンは、シェンリュの胸の中で幸せに浸っていました。
◇◇◇
この日、シェンリュとメイリンは深夜になるまで、皇帝を連れ出す計画の準備をしていました。
「これで、計画の準備は整った。それでは、行ってくるよ、メイリン」
「はい、お気をつけて」
メイリンは、シェンリュに優しく口づけをすると、丁寧に彼を見送りました。
シェンリュは、皇帝のシアを連れ出すために、王宮の正殿へと向かいます。
正殿の入口では、二人の兵士が警備を行っていました。
(警備兵は二人。火薬玉で誘い出して、その隙に中に入るとしよう)
シェンリュは、正殿の入口付近に近づくと、小さな火薬の玉と火打石と木屑を取り出して、慣れた手つきで火打石から火花を木屑に飛ばして着火させます。そして、火薬玉から長めに伸びた導火線に火をつけ、自身のいる場所からなるべく離れた所へと放り投げました。
パァン。
兵士たちは、遠くで何かが破裂する音を聞きました。
「なんの音だ?」
兵士たちは、慌てて音のする方へと駆け寄っていきます。
(まさか、二人で同時に確認しにいくとはね。兵士の内、一人は残って私が対処しないといけないと思っていたのだが。兵士たちに緊張感が足りない。これもこの国が平和ボケしている証拠か)
シェンリュは苦笑いしながら、慎重に正殿の中へと進んでいきます。
(ヨウリンの話では、皇帝のいる部屋はこの廊下の一番奥にある。まっすぐ突き抜けるぞ)
しかし、正殿の中にいるはずの無い人物がいるのを確認したシェンリュは、驚きながら足を止めて、身を隠します。皇帝の居室へと続く廊下の最奥には、ズーハオ将軍が立っていました。
「そこにいるのはわかっています。出てきてもらいましょうか」
ズーハオが、シェンリュのいる方へ話しかけます。
(ズーハオ、何故お前がここにいる……)
シェンリュは天を仰いで、自分の不運を呪いながら、ズーハオの前に姿を現しました。
「何をしにここに来たんですか、シェンリュ。正殿は、皇帝陛下の居室です。あなたが不用意に立ち入っていい場所ではありませんよ」
「あなたこそ、そこで何をしているんです?」
シェンリュがズーハオに聞き返します。
「おかしな質問をしますねえ。皇帝を守るのは、私の重要な任務です。トウミ宰相まで亡くなっている今、シア陛下に何かあっては大変ですから、私がお守りするのは自然なことでしょう?」
「……」
ズーハオの正論に、シェンリュは何も言い返せなくなってしまいました。
「陛下に何かをするつもりでしたね? まさか、あなたが国を裏切るような真似をするとは……。失望しましたよ、シェンリュ」
「まもなく、華の大軍が陸にやってきて、この国は崩壊します。王宮を包囲されて、陛下も処刑されるでしょう。その前に私が陛下を連れてこの国から逃れて、新しい国を作るのです。邪魔をしないでもらいたい!」
「なるほど、そういうことでしたか。ですが、トウミ宰相が亡くなった今、シア陛下まで連れていかれては、私の立場がありませんので、絶対にそんなことはさせませんよ。それに、仮にあなたが陛下を連れ出して戦火から逃れられたとして、その後、この陸に残された人々はどうするのです? あなたは彼らを見捨てるのですか?」
「陸の国民を守るのがあなたの仕事でしょう? それを放棄して私欲を肥やし、軍を弱体化させてきたのはズーハオ、あなただ。あなたにそんなことを言われる筋合いは無い!」
「……私は私なりに、この国が好きで、この国のために働いてきたつもりです。皇帝がいなくなれば、この国は崩壊してしまいます。そんなこと、私が許すとでも?」
「あなたが軍の予算を横領していたことは知っています。それで、どれだけ我が軍が弱体化したことか! この国がまもなく崩壊するのはズーハオ将軍、あなたの責任だ!」
「やれやれ、私の苦労を知らないからそんなことが言えるのです。将軍という立場は、あなたが考えているよりずっと大変なのですよ。まあ、どのみち、話し合いでは結論が出なそうです。お互いの拳と拳で決着をつけるしかないですね」
シェンリュとズーハオは向かい合って、戦闘態勢に入ります。二人の放つ殺気は、まるで正殿の内部がビリビリと震えているように感じられるほどでした。
「シェンリュ。あなたとは一度戦ってみたかったのです。まさかこんな形で実現するとはね。武器は不用。本気でいきますよ」
ズーハオは地面を蹴ると、一瞬で間合いを詰めて、そのまま、掌底を顎めがけて突き出してきます。
シェンリュはギリギリのところでその攻撃を回避して、身体を屈めると、そのまま水平に脚を動かして、ズーハオのふくらはぎを狙って蹴り出します。しかし、ズーハオは素早く上に飛び上がってこれをかわしました。
飛び上がったズーハオが、上から拳をシェンリュに振り下ろします。視界の片隅でその動きを感じ取ったシェンリュは、素早く横に転がり、ズーハオの攻撃を交わします。ズーハオの拳は、そのまま正殿の床を貫きました。
(拳で床をブチ抜くとは、バケモノめ。だが、これで身体がガラ空きだ)
シェンリュは、足に気を込めて、ズーハオに回し蹴りを放ちます。ズーハオはこれを難なく腕で防ぎますが、シェンリュは気にせず、足に全身の気を集中させて、そのままズーハオを蹴り飛ばしました。
「ぐっ、なかなかやりますねえ」
しかし、ズーハオは何事も無かったかのようにすぐに立ち上がると、シェンリュに向かって猛然と走り出してきました。
「くっ、立ち直りが早い。私の気をうまく受け流したのか」
そのまま、ズーハオは肘を曲げた姿勢を作り、シェンリュに肩から身体をぶつけます。シェンリュは、この攻撃をかわすことが出来ずに、ズーハオに弾き飛ばされましたが、すぐに受け身の姿勢を取って手で力強く地面を叩き、ゆっくりと立ち上がりました。
「ふふ、やはりシェンリュ、あなたは強い。発勁まで使えるとは、さすがです」
「その言葉、そのまま返しますよ。まさかあなたが気の調整をここまで上手く出来るとは、想定外でした」
「ふふ、まあ、私も一応将軍ですからね。強くないと、部下に示しがつかないので」
「あなたは、武人としては尊敬出来る。兵士たちから信頼されているのもよくわかります。だからこそ、あなたが憎い。若い皇帝の名前を利用して、後宮を私物化した。その報いを受けてもらいます!」
「ふふ、将軍になってから、何故か性欲が増しましてね。自分の欲望を抑えつけるのは良くない。精神を不安定にさせてしまう。軍を勝利に導くために、私は常に冷静沈着でいなくてはならないのですよ」
「後宮の女性たちはあなたの欲望の捌け口では無い。彼女たちの中には、あなたの子供を孕んだと勘違いしている者もいました」
「欲望の捌け口ねえ。自分でいうのもなんですが、私は女性を抱く時は優しく接しているのですよ。あなたも知ってるでしょう?」
「あなたに抱かれたのは、私の唯一の汚点です。長々と話してしまった。次で決着をつけましょう」
「ええ、恨みっこ無しでお願いしますね」
シェンリュとズーハオは、拳を前に突き出して、再び戦闘態勢に入ります。
シェンリュとズーハオはほぼ同時に動きました。そしてお互いの拳が、相手の急所を正確に狙って飛んでいきます。お互いの急所を殴りあった二人は、ゆっくりと、ほぼ同じタイミングで地面に倒れました。
二人の身体は、倒れたまま、ピクリとも動きません。
(ぐっ、身体に力が入らない。予想以上にダメージを受けてしまった……)
シェンリュは、必死に手足を動かそうとしますが、力が入らず、全く動かすことが出来ませんでした。
(動け。動け。動け私。私は、私はこんなところで止まるわけにはいかない。私は二度とあんな光景は見たくない)
シェンリュの脳裏に、あの日の光景がよみがえってきます。
捕らえられたシェンリュの目の前で、後宮の女性たちが、最愛の弟子メイリンが、次々と華の国の兵士に襲われていきます。
「痛い……痛いです……先生……助けて……助けてください」
身体を拘束されていたシェンリュは、兵士たちに蹂躙されているメイリンを、ただ見つめることしか出来ませんでした。
(だから私は……)
「私は、後宮と、メイリンを守らなければいけないんだあぁぁ!」
シェンリュは、自身の感情を爆発させて、大声で叫びました。
叫び終わると、不思議と全身に力がみなぎってきて、シェンリュはゆっくりと立ち上がることが出来ました。
しかし、ズーハオは、いまだに立ち上がることが出来ませんでした。
「身体に力が入らない。私の負けです、シェンリュ。シアを連れて行きなさい」
「武器を使わないで戦っていただいたこと、感謝します。武器で戦っていたら、間違いなく私は負けていました」
「ふふ、あなたと本気で戦いたかっただけです。私は、兵士たちと最後までこの国を守ります。一人でも多くの陸の国民が、生き延びられるようにね。それが、将軍である私の使命ですから」
「ズーハオ。あなたとは別な形で出会いたかった。私は誤解していた。あなたは本当に素晴らしい武人です。陸の人々を頼みます。将軍として、一人でも多くの人を救ってください」
シェンリュは、ズーハオの手をしっかりと握りしめます。
リーファは、物陰からこっそりと二人の戦いを見守っていました。
(ふふ、ズーハオ将軍を倒しましたね。私が手を貸すまでもなかった。さあ、皇帝を連れていきなさい、シェンリュ)
シェンリュは、若い皇帝を連れて、後宮へと向かいます。後宮に戻ると、彼は皇帝をヨウリンに預けて、診療所に入りました。
「メイリン、戻ったよ」
「おかえりなさい、先生。上手くいったのですね」
「ああ、君がいたから、私はここまでがんばることが出来た。本当にありがとう」
シェンリュは、メイリンを優しく抱きしめます。
「後宮と、この診療所とも、今日でお別れなんですね」
「そうだね。でも、私たちは、これからのことを考えよう。メイリン、これからは助手ではなくて、私のパートナーとして、新しい国作りを支えてくれないか?」
「はい、よろこんで。シェンリュ」
シェンリュとメイリンは抱き合いながら、大人のキスをしました。
数日後、華の軍勢が陸の王宮を取り囲みます。
しかし、シェンリュはすでに若い皇帝と後宮の女性たちを連れて、王宮を離脱していました。
ズーハオ率いる陸軍は、陸の国民を守るために、最後まで勇敢に戦いましたが、華の軍に敗れ去りました。
「もはやここまでか。皇帝を頼みましたよ、シェンリュ」
ズーハオは、最後に単騎で敵に突撃して、壮絶な最後を遂げました。
華の国の皇帝浩然は、王室で部下から報告を受けています。
「なに、王宮に皇帝がいなかっただと!」
「はい、陸の王宮にいた者に吐かせたところ、我々が攻め込む前に、何者かによって連れ去られたとのことで」
「くっ!天は未だ我に完全に味方はせぬということか」
ハオランは、悔しそうに天を仰ぎました。
「天災ともいえる冷害からようやく逃れてきたというのに……。まあよい。我が国の運命は、私の手で切り開く。それだけのこと」
ハオランは、決意を新たにすると、兵士に命令します。
「まだ、この陸のどこかにいるはずだ。皇帝シアを見つけ出し、必ず我の元へ連れてこい」
「はっ。必ずやここへ連れてまいります」
兵士はハオランに一礼すると、王室を離れました。
シェンリュたちは、王都から南にある都市にいました。
「シア様。この都市を治めている郡公の俊熙がシア様を全面的に支援すると約束してくれました。我々はここで新しい国を作るための準備をしましょう」
「ああ、任せるよシェンリュ。私はまだまだ若いが、聡明なあなたが私を支えてくれる。こんなに心強いことはない」
「ここには後宮にいた女性たちもいます。彼女たちも私と一緒にあなたを支えてくれます。今はまだ、小さな光かもしれませんが、必ずやこの光がこの大陸全土を照らすことでしょう。それを実現させるために、このシェンリュ、命を賭してシア様にお仕えいたします」
数年後、皇帝だったシアは、シェンリュとともに新しい国を建国します。
やがて、大陸一の軍師と呼ばれるようになるシェンリュが活躍するお話は、また別の機会に話すとしましょう。
後宮を管理しているヨウリンが、慌てた様子でシェンリュの診療所に駆け込んできました。
「わかりました。すぐに向かいます。メイリン、準備が出来次第、彼女の部屋に行きますよ」
「はい、今すぐ準備します」
シェンリュとメイリンは、治療のための薬などを一式用意すると、ヨウリンとともに、ヤーイーの部屋へと向かいます。
ヤーイーは、寝室でぐったりとしていて、見習いのメイリンでも、一目でみて体調が悪いのがわかりました。
「ヤーイーさん、薬師のシェンリュです。大丈夫ですか?」
「ううぅ……」
彼女は、布団の上で仰向けになりながら、ずっとうなっています。とても辛そうで、話すことは出来なそうです。
「なんとか声は出せていますが、会話は出来そうにないですね。ヨウリンさん、彼女がどうして体調が悪くなったのかわかりますか?」
「すいません、私も詳しくはわからないんです。そう言えば、ヤーイーは少し前に珍しいキノコをもらったと喜んでいましたね。彼女はキノコが大好物なんです」
「キノコですか。おそらく原因はそれでしょう。ヤーイーさん、キノコを食べましたか?」
ヤーイーは、苦しそうにしながら、ゆっくりと首を縦に動かしました。
「わかりました。今から身体を詳しく診ていきます。メイリン、ヤーイーさんの身体を起こしますので後ろから支えていてください」
「はい、先生」
シェンリュがヤーイーの上体を持ち上げ、メイリンが彼女の背中側から身体を支えます。
「ヤーイーさん、今からお腹に手を当てますよ」
シェンリュは、ヤーイーのお腹に静かに手を当てて、お腹の動きから彼女の呼吸の状態を確認します。その後、彼女の右の手首に指を当てて、脈を確認しました。
(呼吸が速く、脈が速い。顔色も青ざめている。思ったより状態が悪いな。ん? これは――)
ヤーイーを診察しているシェンリュは、彼女の瞳孔が縮小していることに気づきました。
「メイリン、私が身体を支えるのを代わりますから、彼女の目を確認してください」
「はい、先生、お願いします」
メイリンはシェンリュと交代すると、ヤーイーの目を注意深く覗き込みます。
「先生、瞳の黒い丸が小さくなっています」
「その黒丸は瞳孔といいます。目の黒い部分が縮小しているのは、彼女の頭が毒の影響を受けているからです。よく覚えておいてくださいね」
「はい、先生」
(早めに毒を体外に排出する必要がある。薬を飲ませないと……)
「ヤーイーさん、今から体内の毒を外に出す薬を渡します。なんとか飲めそうですか?」
ヤーイーは首を縦に振ります。
「これが薬です。粉の薬ですが、飲みやすいように水で溶いてあります。無理せず、ゆっくりと飲んでください」
メイリンが手助けをしながら、慎重に薬を飲ませます。ヤーイーはゆっくりと時間をかけて、薬を全て飲み干しました。
「この薬は体内で毒を吸着します。そして、吸着した毒を体外に排出するのです。薬が効くまで、横になって身体を休めていましょう」
シェンリュは再度ヤーイーを寝かせると、身体を横向きにします。
「身体を横向きにしておくと、嘔吐した時に吐いた物が喉に詰まるのを防ぐことが出来ます。しばらくこのままでいてくださいね」
薬の効果で毒を体外に排出したヤーイーは、次第に体調が回復していきました。
シェンリュが彼女に飲ませたのは、大黄という植物の根と木炭を粉にして混ぜたものです。木炭には毒を吸着する効果が、大黄の根には下剤の効果があります。
「先生、大分体調が良くなってきました。本当にありがとうございます」
ヤーイーは、薬の効果で会話が出来るようになるまで回復したので、シェンリュにお礼をしました。
「顔色もだいぶ良くなってきました。もう大丈夫でしょう。念のため、もうしばらくは安静にしていてくださいね」
「メイリン、私はヨウリンさんとお話したいことがあります。あなたは先に診療所に戻って待っていてください」
「わかりました。私は先に戻りますね」
メイリンが部屋から出たあと、休んでいるヤーイーから離れた場所で、シェンリュはヨウリンに話しかけます。
「ヨウリンさん、あなたは本当に強い人だ。トウミ宰相が亡くなってしまったのに、気丈に振る舞っている」
「トウミ宰相が亡くなってから、私はいっぱい泣きました。涙が出なくなるくらい、悲しかったですし、寂しかった。けれど、私は、この後宮が好きなんです。ですから、宰相にこの後宮の管理を任された以上、私は責任を持ってこの後宮を守りたいんです。だから、私がここで投げ出すわけにはいかない。弱音を吐いたり、うなだれていたりしてはいられないんです」
「お話してくれてありがとうございます。あなたの思いを知ることが出来て、本当によかった。私もあなたと同じ気持ちです。大好きなこの後宮を守りたい。お互い、がんばりましょう」
「シェンリュさん、あなたと話せて本当によかった」
突然、ヨウリンがシェンリュに抱きついてきます。ヨウリンの豊満な胸が潰れるぐらい、彼女はシェンリュを強く抱きしめています。そのままヨウリンは、上目遣いでシェンリュに話しかけます。
「すいません、私、もういっぱいいっぱいで、限界なんです。シェンリュさん、しばらくこのままでいさせてもらってもいいですか?」
「大丈夫です、ヨウリンさん。あなたの気が済むまでこうしていてください」
「うわああああん」
優しいシェンリュの声を聞いたヨウリンは感情が抑えきれなくなって、大声で泣き出します。シェンリュは抱きついているヨウリンを支えながら、彼女の頭を優しく撫でました。
「私はあなたに感謝しています。あなたは責任感を持って、この後宮をしっかりと管理してくれている。あなたがいなかったら、この後宮はとても存続はできないでしょう。本当にありがとうございます」
そう話すと、シェンリュはヨウリンを優しく抱きしめ返しました。
◇◇◇
華の王宮の一室でくつろいでいたリーファは本来の姿に戻っていました。彼女の背後で九本の尾がヒラヒラと妖しく揺れ動いています。
「さて、そろそろシェンリュに会いにいきますか」
リーファは、九尾の狐の一族でした。彼女はトウミを唆して陸を滅ぼそうとしていた、シェンリュにとっては宿敵ともいえる存在です。
リーファは人間の姿へ変化すると、黒い中華服を身に纏い、白い仮面をつけます。そして、虹色に輝く鏡の中へと消えていきました。
◇◇◇
仮面を着けた黒服の女性が、シェンリュの診療所にやってきます。
「シェンリュ先生、お話をしたいのですが……」
「あなたは……。メイリン、しばらくミオンの元に行っていなさい」
女性を見た瞬間、シェンリュは彼女を警戒しながら、メイリンに手ですぐに逃げるように合図をしました。
「私の直感があなたを危険だと警告しています。トウミ宰相を暗殺したのはあなたですね?」
「ふふ、いい感覚をお持ちですね。そうです。私が彼を殺しました。おっと、今彼女に出ていってもらっては困りますね。ここにいてもらいましょうか」
女性はお尻付近から白く輝く尻尾を出すと、目にも止まらない速さでメイリンに尻尾を巻き付けて、動けなくします。
「きゃっ!?」
「メイリン!」
メイリンの全身に、白い毛並みの尾が巻き付いてきたので、彼女は逃れようと必死にもがいています。しかし、長く白い尻尾は、彼女の身体に食い込んで、離れません。
「うぅ、動いても動いても、ほどけないです」
「その姿、人外か。メイリンには手を出すな。彼女は関係ない」
「それは私の気分しだいです。とりあえず、私を怒らせないことです、シェンリュ」
仮面の女性は白い尾をメイリンの首に巻き付けました。尻尾は少しずつ、メイリンの首を締め付いていきます。
「うぅ……苦しい」
「このまま彼女の息の根を止めることも出来るのですよ」
彼女は、メイリンをいつでも殺せると脅すかのように、殺気を放っています。
その光景をみたシェンリュは、女性への怒りの感情を必死に抑え込みながら、メイリンを守るために、やむを得ず彼女の言うことを聞くことにしました。
「わかりました。あなたの話を聞きますから、彼女を助けてください」
それを聞くと、女性はメイリンの首から尻尾を外しました。そして、彼女は顔から白い仮面を取り外します。整った顔立ちの女性が、妖しくシェンリュを見つめながら、微笑んでいます。同時にシェンリュは、メイリンに向けられていた殺気が、少しだけ緩んだのを感じました。
「ふふ、今回はあなたに不利な話ではありませんので、ご心配なく。あ、まだ名前を伝えていませんでしたね。私は、人間の姿の時はリーファと名乗っています」
「リーファ、何故あなたはトウミを暗殺したのです?」
シェンリュは、リーファを刺激しないよう、言葉を選んで、慎重に話しかけます。
「ふふ、わかっているくせに。陸を滅ぼすためです。この国はもう必要ないので」
「私も、トウミとズーハオを暗殺する予定でした。だが、あなたとは目的が違う。私は、この国をめちゃくちゃにした二人を殺して、この国を立て直すつもりだったのです」
「シェンリュ、あなたはこの時代の人物ではないのでしょう? だから、陸が滅亡するのを知っていた。違いますか?」
想定外の質問にシェンリュは驚いた顔をしましたが、すぐに冷静な顔を取り戻して、リーファに返答します。
「ええ、その通りです。私は未来からこの時代に来た転移者です」
メイリンは、シェンリュの告白に目を丸くして驚きます。そして彼女には、シェンリュが何を言っているのか、すぐには理解できませんでした。
「ふふ、やはりそうでしたか。そして、あなたはこの時代に来てから何度もシェンリュとしての人生を経験していますね。何らかの方法で時間を繰り返している。おそらく、時の秘術を使いましたね?」
「……そうしてでも、私には守りたいものがあるのです」
「なるほど、よくわかりました。あなたは、陸を守るためにズーハオとトウミを殺そうとしたのですね。ですが、その二人を殺して、国を立て直したところで、陸の滅亡は変わらない。現にトウミはこの私が殺害しましたが、それでも、滅亡する運命は変わらないのです。何故かわかりますか?」
「正直、私にはわかりません。あなたがそのように仕向けるからではないですか?」
「あなたは一番大切なことを見落としているからわからないのです。では、一つ質問しましょう。あなたはなぜ、これから華が陸に侵攻してくるのか、その理由を知っていますか?」
「華の皇帝に領土拡大の野心があるから、侵略するのでしょう?」
「ふふ、まあ、普通はそう考えるでしょうね」
リーファは、シェンリュがありきたりの答えを返してきたので、くすくすと笑いました。
「今、この大陸で急速に寒冷化が進行しているのはシェンリュ、あなたも知っているでしょう? そのせいで、華は今、人が住めない場所になりつつあります。そうなれば、彼らは生きるために南進してこの国に侵攻せざるをえない。華の国の人々は、そこまで追い込まれているのですよ。まだまだ温暖で平和な陸にいるあなたたちは、そんなことはわからないし、知ろうともしなかった。現に、あなたは何も知らなかった」
「そんな、華の国が今、そんな状況になっているとは――」
自分が全く知らなかった事実に、シェンリュは驚きを隠せませんでした。
「だから、華の軍と陸の軍では、士気が違う。華の国の兵士たちは、生きるために、死に物狂いでこの国へと攻め込んできます。そんな相手に、平和ボケしたこの国の兵士たちが敵うと思いますか?」
「……結局、何をしてもこの国は滅びるというわけですか」
シェンリュは、トウミ宰相とズーハオ将軍さえ倒せば運命を変えられると思っていた自分の考えが浅はかだったことを思い知らされて、うなだれてしまいます。
「人間は、運命というものには逆らえません。逆らおうとして異なる結末になるよう行動を起こしても、別のどこかで調整されて、結局はその結末に向かうのですよ」
「私は何度も、この後宮の人々が華の兵士たちに蹂躙され、連行されていくのをこの目で見ています。その後、彼女たちがどのような扱いを受けていたのかも知っています。私は、後宮の女性たちが、華に支配されたこの国で、まるで性奴隷のように、華から来た男たちに奉仕させられているという話を聞いて、心底嫌になったのです。だから、そうなる前に私はこの国を変えたかった。この国をめちゃくちゃにした元凶であるトウミとズーハオを暗殺して、華の国が攻めてくる前にこの国を建て直したかったんです」
「なるほど、あなたはこの後宮の人々を守りたいのですね。確かに、華の軍がここに突入すれば、彼女たちはこの場所から連れ去られて、人間扱いはされないでしょう。あなたはそれを止めたいのですね?」
「ええ、その通りです。そのために、私はずっと計画を練ってきたのですから」
「……ならば、お前が守ればよかろう」
「え?」
リーファが急に口調を変えたので、シェンリュは驚いて思わず聞き返しました。それまでの丁寧な言葉遣いとは違い、リーファは上から諭すような言葉と口調でシェンリュに話し始めます。
「華の国の兵士たちがここに突入する前に、お前が女性たちを連れて、ここから離れればよい」
「簡単に言ってくれますね。それが出来れば苦労は……」
「私が手を貸してやる。お前は私の出した問題をみごと解決したからな。その褒美として、お前の願いを叶えてやるよ」
そこまで話すと、リーファは人の姿から元の白い狐の姿へと変化しました。彼女の背後で、白い九本の尻尾がゆらゆらと妖しく揺れています。
(尾が九本ある。なるほど、あなたの正体は九尾の狐でしたか)
「そのお姿、殷の時代からこの世界を裏から動かしてきた、九尾の狐とお見受けします。今回、同じ時間を繰り返している私が、今までに経験したことのない事件が、立て続けに起こりました。それは、あなたが陸と華に介入してくれたからなのですね。九尾様に協力していただけるなら、これほど心強いことは無いです。今度こそ、後宮を救えるのではと、希望が湧いてきました」
リーファの正体を知ったシェンリュは、彼女にひざまずいて、頭を下げました。そして、覚悟を決めた表情で、狐になったリーファの顔を見つめています。
「お前は何度も時間を繰り返し、失敗しても決して諦めなかった。だから、私と巡り合うことが出来たのだよ。これから、この国の若い皇帝を連れ出して、後宮の女性たちと南の地へ向かうといい。そこで皇帝と新たな国を作り、華に対抗するのだ。それは、お前にしか出来ないことだ」
「わかりました。私が、若き皇帝仔空と、後宮の女性たちを連れて、南へと逃れます。その後、私はシア陛下と、新たな国を作る準備をします。九尾様のお言葉で、私は迷いを捨てることが出来ました。本当にありがとうございます」
「覚悟を決めたようだな。それでいい。君の活躍を期待しているぞ、シェンリュ」
(まあ、君がやらなくても、私がそうする予定だったのだけどね)
リーファは人間の姿へと戻ると、自身の尾を緩めてメイリンを解放しました。そして、彼女は満足そうな顔をしながら、診療所を後にします。
シェンリュはリーファが出ていったことを気にする余裕もなく、すぐにメイリンのもとへと駆け寄りました。
「大丈夫ですか、メイリン」
「はい先生、私は何ともありません」
「それはよかった。怖い思いをさせてしまったね。本当にすまない」
シェンリュは、メイリンを優しく抱きしめました。
「先生、私は先生が何者でも構いません。私は先生の助手ですから、この先どんなことがあっても、先生についていきます」
「ありがとう、メイリン」
「感謝するのは私の方です。私は先生に拾っていただいて、助手にしてもらってから、いろんなことを教えてもらって、助けてもらいました。感謝してもしきれません。だから、いつか先生に恩返しさせてください」
「私はあなたをどこかで子供扱いしていました。ですがもう、立派な人間として成長していた。メイリン、あなたの願いを叶えてあげましょう」
シェンリュはメイリンに顔を上げさせて、彼女の唇にキスをします。
「いいんですか? 先生」
「ええ、あなたの望むままに」
メイリンは、シェンリュにいっぱいキスをし返します。そのまま、二人は倒れ込みました。
◇◇◇
その夜、二人は診療所で眠っていました。
ふと目を覚ましたメイリンは、すでに眠っているシェンリュの横で、彼の寝顔を見ながらつぶやきます。
「先生、私の願いを叶えてくれて、本当にありがとうございます。私は本当に幸せ者です」
次の日、シェンリュは、ヨウリンのもとを訪ねていました。
「ヨウリンさん、あなたは正殿に入ったことがあるとお聞きしました。思い出せる範囲で、内部の様子を教えていただけると助かります」
「ついに計画を実行するのですね」
「ええ、私は、後宮の人々を守りたいのです。そのためには、残念ながら、私だけでは力不足なのです。シア陛下のお力が必要になります」
「わかりました。私たち後宮の女性たちは、あなたについていくことに決めました」
「あなたがまとめてくださったのですね。本当に、ありがとうございます」
「感謝するのはわたしの方です。それで、あの、先生がよろしければ、この前のように私を抱きしめていただけませんか?」
ヨウリンは、目を伏せて恥ずかしそうにシェンリュにお願いします。
「もちろんです。あなたにはとてもお世話になりましたからね」
「ありがとうございます」
シェンリュは、正面からヨウリンを優しく抱きしめました。
(ああ、この感触、たまりません。おかしくなってしまいそうです)
ヨウリンは、シェンリュの胸の中で幸せに浸っていました。
◇◇◇
この日、シェンリュとメイリンは深夜になるまで、皇帝を連れ出す計画の準備をしていました。
「これで、計画の準備は整った。それでは、行ってくるよ、メイリン」
「はい、お気をつけて」
メイリンは、シェンリュに優しく口づけをすると、丁寧に彼を見送りました。
シェンリュは、皇帝のシアを連れ出すために、王宮の正殿へと向かいます。
正殿の入口では、二人の兵士が警備を行っていました。
(警備兵は二人。火薬玉で誘い出して、その隙に中に入るとしよう)
シェンリュは、正殿の入口付近に近づくと、小さな火薬の玉と火打石と木屑を取り出して、慣れた手つきで火打石から火花を木屑に飛ばして着火させます。そして、火薬玉から長めに伸びた導火線に火をつけ、自身のいる場所からなるべく離れた所へと放り投げました。
パァン。
兵士たちは、遠くで何かが破裂する音を聞きました。
「なんの音だ?」
兵士たちは、慌てて音のする方へと駆け寄っていきます。
(まさか、二人で同時に確認しにいくとはね。兵士の内、一人は残って私が対処しないといけないと思っていたのだが。兵士たちに緊張感が足りない。これもこの国が平和ボケしている証拠か)
シェンリュは苦笑いしながら、慎重に正殿の中へと進んでいきます。
(ヨウリンの話では、皇帝のいる部屋はこの廊下の一番奥にある。まっすぐ突き抜けるぞ)
しかし、正殿の中にいるはずの無い人物がいるのを確認したシェンリュは、驚きながら足を止めて、身を隠します。皇帝の居室へと続く廊下の最奥には、ズーハオ将軍が立っていました。
「そこにいるのはわかっています。出てきてもらいましょうか」
ズーハオが、シェンリュのいる方へ話しかけます。
(ズーハオ、何故お前がここにいる……)
シェンリュは天を仰いで、自分の不運を呪いながら、ズーハオの前に姿を現しました。
「何をしにここに来たんですか、シェンリュ。正殿は、皇帝陛下の居室です。あなたが不用意に立ち入っていい場所ではありませんよ」
「あなたこそ、そこで何をしているんです?」
シェンリュがズーハオに聞き返します。
「おかしな質問をしますねえ。皇帝を守るのは、私の重要な任務です。トウミ宰相まで亡くなっている今、シア陛下に何かあっては大変ですから、私がお守りするのは自然なことでしょう?」
「……」
ズーハオの正論に、シェンリュは何も言い返せなくなってしまいました。
「陛下に何かをするつもりでしたね? まさか、あなたが国を裏切るような真似をするとは……。失望しましたよ、シェンリュ」
「まもなく、華の大軍が陸にやってきて、この国は崩壊します。王宮を包囲されて、陛下も処刑されるでしょう。その前に私が陛下を連れてこの国から逃れて、新しい国を作るのです。邪魔をしないでもらいたい!」
「なるほど、そういうことでしたか。ですが、トウミ宰相が亡くなった今、シア陛下まで連れていかれては、私の立場がありませんので、絶対にそんなことはさせませんよ。それに、仮にあなたが陛下を連れ出して戦火から逃れられたとして、その後、この陸に残された人々はどうするのです? あなたは彼らを見捨てるのですか?」
「陸の国民を守るのがあなたの仕事でしょう? それを放棄して私欲を肥やし、軍を弱体化させてきたのはズーハオ、あなただ。あなたにそんなことを言われる筋合いは無い!」
「……私は私なりに、この国が好きで、この国のために働いてきたつもりです。皇帝がいなくなれば、この国は崩壊してしまいます。そんなこと、私が許すとでも?」
「あなたが軍の予算を横領していたことは知っています。それで、どれだけ我が軍が弱体化したことか! この国がまもなく崩壊するのはズーハオ将軍、あなたの責任だ!」
「やれやれ、私の苦労を知らないからそんなことが言えるのです。将軍という立場は、あなたが考えているよりずっと大変なのですよ。まあ、どのみち、話し合いでは結論が出なそうです。お互いの拳と拳で決着をつけるしかないですね」
シェンリュとズーハオは向かい合って、戦闘態勢に入ります。二人の放つ殺気は、まるで正殿の内部がビリビリと震えているように感じられるほどでした。
「シェンリュ。あなたとは一度戦ってみたかったのです。まさかこんな形で実現するとはね。武器は不用。本気でいきますよ」
ズーハオは地面を蹴ると、一瞬で間合いを詰めて、そのまま、掌底を顎めがけて突き出してきます。
シェンリュはギリギリのところでその攻撃を回避して、身体を屈めると、そのまま水平に脚を動かして、ズーハオのふくらはぎを狙って蹴り出します。しかし、ズーハオは素早く上に飛び上がってこれをかわしました。
飛び上がったズーハオが、上から拳をシェンリュに振り下ろします。視界の片隅でその動きを感じ取ったシェンリュは、素早く横に転がり、ズーハオの攻撃を交わします。ズーハオの拳は、そのまま正殿の床を貫きました。
(拳で床をブチ抜くとは、バケモノめ。だが、これで身体がガラ空きだ)
シェンリュは、足に気を込めて、ズーハオに回し蹴りを放ちます。ズーハオはこれを難なく腕で防ぎますが、シェンリュは気にせず、足に全身の気を集中させて、そのままズーハオを蹴り飛ばしました。
「ぐっ、なかなかやりますねえ」
しかし、ズーハオは何事も無かったかのようにすぐに立ち上がると、シェンリュに向かって猛然と走り出してきました。
「くっ、立ち直りが早い。私の気をうまく受け流したのか」
そのまま、ズーハオは肘を曲げた姿勢を作り、シェンリュに肩から身体をぶつけます。シェンリュは、この攻撃をかわすことが出来ずに、ズーハオに弾き飛ばされましたが、すぐに受け身の姿勢を取って手で力強く地面を叩き、ゆっくりと立ち上がりました。
「ふふ、やはりシェンリュ、あなたは強い。発勁まで使えるとは、さすがです」
「その言葉、そのまま返しますよ。まさかあなたが気の調整をここまで上手く出来るとは、想定外でした」
「ふふ、まあ、私も一応将軍ですからね。強くないと、部下に示しがつかないので」
「あなたは、武人としては尊敬出来る。兵士たちから信頼されているのもよくわかります。だからこそ、あなたが憎い。若い皇帝の名前を利用して、後宮を私物化した。その報いを受けてもらいます!」
「ふふ、将軍になってから、何故か性欲が増しましてね。自分の欲望を抑えつけるのは良くない。精神を不安定にさせてしまう。軍を勝利に導くために、私は常に冷静沈着でいなくてはならないのですよ」
「後宮の女性たちはあなたの欲望の捌け口では無い。彼女たちの中には、あなたの子供を孕んだと勘違いしている者もいました」
「欲望の捌け口ねえ。自分でいうのもなんですが、私は女性を抱く時は優しく接しているのですよ。あなたも知ってるでしょう?」
「あなたに抱かれたのは、私の唯一の汚点です。長々と話してしまった。次で決着をつけましょう」
「ええ、恨みっこ無しでお願いしますね」
シェンリュとズーハオは、拳を前に突き出して、再び戦闘態勢に入ります。
シェンリュとズーハオはほぼ同時に動きました。そしてお互いの拳が、相手の急所を正確に狙って飛んでいきます。お互いの急所を殴りあった二人は、ゆっくりと、ほぼ同じタイミングで地面に倒れました。
二人の身体は、倒れたまま、ピクリとも動きません。
(ぐっ、身体に力が入らない。予想以上にダメージを受けてしまった……)
シェンリュは、必死に手足を動かそうとしますが、力が入らず、全く動かすことが出来ませんでした。
(動け。動け。動け私。私は、私はこんなところで止まるわけにはいかない。私は二度とあんな光景は見たくない)
シェンリュの脳裏に、あの日の光景がよみがえってきます。
捕らえられたシェンリュの目の前で、後宮の女性たちが、最愛の弟子メイリンが、次々と華の国の兵士に襲われていきます。
「痛い……痛いです……先生……助けて……助けてください」
身体を拘束されていたシェンリュは、兵士たちに蹂躙されているメイリンを、ただ見つめることしか出来ませんでした。
(だから私は……)
「私は、後宮と、メイリンを守らなければいけないんだあぁぁ!」
シェンリュは、自身の感情を爆発させて、大声で叫びました。
叫び終わると、不思議と全身に力がみなぎってきて、シェンリュはゆっくりと立ち上がることが出来ました。
しかし、ズーハオは、いまだに立ち上がることが出来ませんでした。
「身体に力が入らない。私の負けです、シェンリュ。シアを連れて行きなさい」
「武器を使わないで戦っていただいたこと、感謝します。武器で戦っていたら、間違いなく私は負けていました」
「ふふ、あなたと本気で戦いたかっただけです。私は、兵士たちと最後までこの国を守ります。一人でも多くの陸の国民が、生き延びられるようにね。それが、将軍である私の使命ですから」
「ズーハオ。あなたとは別な形で出会いたかった。私は誤解していた。あなたは本当に素晴らしい武人です。陸の人々を頼みます。将軍として、一人でも多くの人を救ってください」
シェンリュは、ズーハオの手をしっかりと握りしめます。
リーファは、物陰からこっそりと二人の戦いを見守っていました。
(ふふ、ズーハオ将軍を倒しましたね。私が手を貸すまでもなかった。さあ、皇帝を連れていきなさい、シェンリュ)
シェンリュは、若い皇帝を連れて、後宮へと向かいます。後宮に戻ると、彼は皇帝をヨウリンに預けて、診療所に入りました。
「メイリン、戻ったよ」
「おかえりなさい、先生。上手くいったのですね」
「ああ、君がいたから、私はここまでがんばることが出来た。本当にありがとう」
シェンリュは、メイリンを優しく抱きしめます。
「後宮と、この診療所とも、今日でお別れなんですね」
「そうだね。でも、私たちは、これからのことを考えよう。メイリン、これからは助手ではなくて、私のパートナーとして、新しい国作りを支えてくれないか?」
「はい、よろこんで。シェンリュ」
シェンリュとメイリンは抱き合いながら、大人のキスをしました。
数日後、華の軍勢が陸の王宮を取り囲みます。
しかし、シェンリュはすでに若い皇帝と後宮の女性たちを連れて、王宮を離脱していました。
ズーハオ率いる陸軍は、陸の国民を守るために、最後まで勇敢に戦いましたが、華の軍に敗れ去りました。
「もはやここまでか。皇帝を頼みましたよ、シェンリュ」
ズーハオは、最後に単騎で敵に突撃して、壮絶な最後を遂げました。
華の国の皇帝浩然は、王室で部下から報告を受けています。
「なに、王宮に皇帝がいなかっただと!」
「はい、陸の王宮にいた者に吐かせたところ、我々が攻め込む前に、何者かによって連れ去られたとのことで」
「くっ!天は未だ我に完全に味方はせぬということか」
ハオランは、悔しそうに天を仰ぎました。
「天災ともいえる冷害からようやく逃れてきたというのに……。まあよい。我が国の運命は、私の手で切り開く。それだけのこと」
ハオランは、決意を新たにすると、兵士に命令します。
「まだ、この陸のどこかにいるはずだ。皇帝シアを見つけ出し、必ず我の元へ連れてこい」
「はっ。必ずやここへ連れてまいります」
兵士はハオランに一礼すると、王室を離れました。
シェンリュたちは、王都から南にある都市にいました。
「シア様。この都市を治めている郡公の俊熙がシア様を全面的に支援すると約束してくれました。我々はここで新しい国を作るための準備をしましょう」
「ああ、任せるよシェンリュ。私はまだまだ若いが、聡明なあなたが私を支えてくれる。こんなに心強いことはない」
「ここには後宮にいた女性たちもいます。彼女たちも私と一緒にあなたを支えてくれます。今はまだ、小さな光かもしれませんが、必ずやこの光がこの大陸全土を照らすことでしょう。それを実現させるために、このシェンリュ、命を賭してシア様にお仕えいたします」
数年後、皇帝だったシアは、シェンリュとともに新しい国を建国します。
やがて、大陸一の軍師と呼ばれるようになるシェンリュが活躍するお話は、また別の機会に話すとしましょう。