深を知る雨


 《20:00 Sランク寮前》雪乃side


昨日の天気予知では確実に大雨が降ると言われていたにも関わらず傘を忘れた私は、できるだけ濡れないようにSランク寮まで走った。

これだけ全力で走ったのは高校生以来ではないかと思えるほど頑張ったのに、一ノ宮様は寮のドアを開けることなくインターホン越しに冷たい声で言ってきた。

『今夜は帰ってください。客がいるので』
「……え」

そんなことを言われても……どこに帰ればいいのだろう。

義父様のところへは戻れない。Sランクの性欲処理をしろというのは義父様の命令だ。帰ったって受け入れてはくれないだろう。

この雨の中、夜が過ぎるのをどこで待てと言うのか。……姉様のところ?Aランク寮の皆様と同じ空間にいるのは楽しいが、いきなり行っては迷惑な気がする。


行き場がなく、暫くぼーっとその場に立っていた私に誰かが声を掛けてきたのは、かなり時間が経った後だった。

「―――何してるの」

振り向くと、雨が降っている分余計羊みたいな髪の毛になってる兄様が傘を持って立っていた。

兄様に話し掛けられるなんて、珍しいこともあるものだ。

「今日、Sランクのお相手する曜日じゃなかった?」

……何で兄様が私の仕事の日を覚えているんだろう。

「……今日は、必要無いそうなので」
「え?急にそう言われたの?必要無いにしても先に連絡すべきじゃないの?ていうか傘持ってないの?」
「だ、大丈夫です」

質問を一気に飛ばして来る兄様に何と答えていいか分からず、それだけ言ってどこかへ行こうとした私の腕を、兄様が掴んだ。

何も言わず私を引っ張り、大きな傘の中に入れてくれた兄様は、無言で歩き始める。

これはついて来いという意味なのか、それとも違う意味なのか、疑ってしまうのは相手がいつも冷たい兄様だから。

このまま兄様が歩いて行く方向に付いていったら、途中で「何付いてきてるの?どっか行って」とでも言われそうでビクビクしてしまう。


しかし、兄様は私の予想に反して結局何も言わないまま私をCランク寮に入れた。

傘をロボットに預けてエレベーターのボタンを押す兄様に、私はどうしていいか分からず立ち止まる。

「何突っ立ってんの。女がそんなとこにいたら目立つでしょ」

そうだ、ここはCランク寮。本来女性がいるはずのない場所だ。今は皆部屋にいるようでここには誰もいないが、誰か出てきたら騒がれてしまう。

慌てて兄様と一緒にエレベーターに乗り、兄様の部屋に向かう。……兄様がどういうつもりなのか分からない。冷たくしたと思えばこんなことをして、本当は私のことどう思ってるんだろう。本気で嫌われてるわけじゃないって、期待してもいいのだろうか。

部屋に入ると、兄様は私を無言でバスルームに案内してキッチンの方へ行ってしまった。

……風呂に入れってことなのだろう。

久しぶりに感じる兄様の優しさに胸がポカポカする。


シャワーを浴びて髪を乾かし、タオルで体を拭いた私は、いつの間にか脱いだ服が無くなっていることに気付く。私がシャワーを浴びている間に兄様が乾かそうと思って持っていってくれたのだろう。

でもそんなことをされたら私は何を着たらいいのか。体にタオルを巻いて恐る恐るドアを開け、兄様を呼ぶ。

「…あの……私、着替えを持ってなくて」
「あぁ……俺の貸すよ。とりあえずこれ着といて」

兄様は迷うことなく上着を脱いで私に手渡し、私が着れそうなものを探すためかまた向こうへ行く。

私はその上着を着て、妙に高鳴る心臓をどうしようかと悩んだ。

……兄様の上着……。主要組織適合抗原の似た相手の匂いは臭く感じるとよく言うのに、兄様を臭いと思ったことは一度も無い。

それどころか、この香りに惹かれるのだから不思議だ。

兄様の上着を抱きしめ、すうっとその匂いを嗅いだ。

まるで変態だという自覚はあるが、久しぶりに嗅ぐ匂いにテンションが上がってしまい、私は兄様の上着を抱きしめたままゴロゴロ転がる。

こんな姿を義父に見られたらはしたないと叱られるだろう。


―――兄様という存在に惹かれていることに気付いたのは随分前だ。


しかし、その頃から兄様は私に冷たくするようになった。私がこんな感情を抱いているせいだ、罰が当たったんだ、と、私はずっと思ってた。

でも、今だけは神様もこの感情を許してくれるらしい。

今だけは―――兄様を好きでいていいんだ。

不思議な開放感がして、私はひたすらゴロゴロ転がった。兄様の上着に包まれながら。



「……何してるの、雪乃」

―――心臓が、止まるかと思った。

床に寝転がっている私を、兄様が見下ろしている。

目眩がする。鼓動が速くなる。

もっと遅く戻ってくるかと思ってた。そんな早く服が見つかるなんて思ってなかった。

――見ら、れた。1番見られたくない人に。見られてはいけない人に。

どうせ見られるなら、義父の方がマシだった。

私は何か話そうとして、しかし言い訳が出て来ず、何も言わず立ち上がる。


何て言い訳しよう?転んだ?変な匂いがしたから気になって嗅いでた?

隠せ。

誤魔化せ。

死んでもバレちゃいけない。

この気持ちは。


―――――実の兄への恋心は。



「匂いフェチなの?」

兄様はおよそ感情の感じられない目をしてこちらにゆっくり近付いてくる。

ああ、恋心以前に私がしていたのは変態行動。これについてもきっちり誤魔化さなければいけない。

「フェチとかそういうのじゃ、」
「俺の匂い嗅いで浮かれてたのに?」

駄目だ。落ち着け。冷静になれ。

「そんなに俺の匂いが好き?」

じりじりとこちらを壁に追い詰めてくる兄様は、いつもの兄様では無かった。

私を避けようとする、最低限の関わりしか持とうとしない、いつもの兄様では無かった。

「……地獄を這いずり回って生きてるのは、俺の方だけじゃなかったのかな」

兄様の腕が私の背中に回る。抱き寄せられ、兄様の香りに包まれた。

「……は、離して……」
「嫌だ」
「兄様、お願い……」
「……もう、雪乃がどっちにいようが構わない」




―――外に降る雨は遣らずの雨か。

嗚呼、私は。



「雪乃がまだ地上にいるとしても……俺が雪乃を地獄へ引きずり落とすから」



――――あれだけ開けてはならないとしてきた禁断の扉を開けるきっかけを作ってしまったのだ。




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