深を知る雨


 《19:00 Sランク寮》泰久side



実家から帰ると一也が出掛けており、寮には誰もいなかった。

コートを脱いでキッチンへ行き、目を擦りながらコップに水を入れる。

今日は疲れた。この後の時間は、読み掛けの本でも読みながらゆっくりしよう。

水を飲み干してから椅子に座ろうとしたその時、居間に入ってきた人物がいた。

哀花だ。哀花は鍵を持っていなくても寮に入れる。


「どうした?いつもより早いな」
「…………いや、どうせ怒られるなら早いうちに怒られといた方がいいかなと思って……」
「は?」


ぼそぼそ喋る哀花の言葉の内容がどういう意味か分からず首を傾げると、哀花は驚いた顔で俺を見てくる。


「泰久、ニュースとか見てないの!?今日!」
「ああ……少しバタバタしていて見ていない。何か大きなことでもあったのか?」
「……あっいやいやいや特に何も!今日も日本は平和だよ!」


端末を開こうとする俺の手を哀花が止める。

その手が冷たかったので、ロボットに指示して部屋の温度を上げさせた。

一体何故そんなに慌てているのか気になるところだが、まずは冷えた体を温めなければいけない。

すると哀花は何を思ったのかふにゃりと笑った。


「やっぱ私、泰久のこと好きだなぁ」


……またそれか。俺の何処がいいのか知らないが、哀花は最近頻繁に好意を伝えてくるようになった。

いつもならすぐにお決まりの返しをするのだが、何故かふと父の部下を前にした時の気持ちを思い出し口ごもってしまう。

俺は部下にあんな風に慕われるような存在ではないし、父親には遠く及ばない。

家ではあんな父親でも、職場では俺以上の役割を果たしていたのだ。……俺は、あの父親以下の存在である。

哀花にはもっと良い奴がいる。今は俺のことが好きでも、そのうち必ずもっと良い奴が現れる。

だから。


「……こんな男のことなんて、早く忘れろ」


何気無くぽつりと呟いた、その次の瞬間だった。


「ッ、」


―――哀花が俺を殴ったのは。

しかも本気だ。さすがに予想しておらず防げなかった。


「泰久のせいだからね!」
「……は?」
「泰久がそんなこと言うのが悪いんだから!」


動揺している俺の足を引っ掛け、勢いよく床に押し倒す哀花。どすん、と大きな音がした。

……どこで男の押し倒し方なんて覚えたんだ?いや、Eランク隊員なら当然習う初歩的な技か。


「ムカつく!ムカつく!ムカつく!やっといつもと違うこと言ったと思ったらそれかよ!!」


見上げれば、哀花が俺を睨み付けている。


「私は泰久が好きだよ。いつまでも振り向いてくれなくても、泰久がずっとお姉ちゃんのこと好きなままでも、私は泰久に一生恋し続けるんだと思う」


真っ直ぐ俺を見てまた想いを伝えてくる哀花は、今にも泣きそうな表情をしている。

泣くなと言いたかったが、泣きそうになっているのは俺のせいだというのに俺がそれを言うのは何か違う気がして引っ込める。


「……泰久だけだったの」

――――「あの子だけだったの」


言いながら力無く笑う哀花の顔が、あの日の優香と重なった。


「できないなりに頑張ってる私のことかっこいいって言ってくれたのは」

――――「幼い頃、“あたし自身”を見てくれたのは」


驚きの余り動けなくなった俺の上から、ゆっくりと哀花の方が退く。


「だから、泰久を“こんな男”呼ばわりするのはいくら泰久でも許さない。…もしまた言ったら殴るからね」


もう殴ったじゃないか、と、言いたかったのに言えなかった。

哀花があまりに真剣な表情をしていたから言えなかった。

押し倒すだけ押し倒しておいてふんっと鼻を鳴らし居間を出ていく哀花を、俺は寝転がったまま呆然と見ることしかできなかった。



漸く上半身を起こしたのも、哀花が出ていってから何分経った後か分からない。


―――いつからだ。いつから、あんなに“女”の顔をするようになった?




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