深を知る雨
《13:00 Sランク寮》一也side
ここ数週間ほど、泰久様はぼーっとしていることが多い。
壁にぶつかったり、自販機で紅茶を買おうとして炭酸飲料のボタンを押してしまっていたり、哀花様が寮にやって来ると趣味である読書にも集中できない様子でしばしば視線を本から外したり戻したりと忙しない。
さすがに訓練の時は集中しているとはいえ、いつもの泰久様らしくないのは明白だ。
電波ジャックのニュースを観ても怒りもしなかったし、頭の働きが鈍っているとしか思えない。
「最近何かありました?」
いい加減気になるのでそう声を掛けると、昼食後の一時を過ごしていた泰久様はゆっくり顔を上げた。相変わらず、男の僕でもぞっとする程綺麗な顔をしている。
「よく気付いたな」
「分かりますよ、何年一緒にいると思ってらっしゃるんですか」
「……少し、気掛かりなことがあるんだ」
手に持っていた今では珍しい文庫本に栞を挟んで机に置いた泰久様は、難しい表情をして言った。
「最近、哀花といると鼓動が速くなることがある」
「……は?」
「哀花といる時だけだ。訓練を終えて十分時間が経った後でも、運動をした直後に似た状態になる」
「……」
「どうしてなのかずっと考えていた」
ずん、と重たいものが肩の上に乗った気がした。
僕は心の何処かで現状に甘んじていたのだ。
泰久様は絶対に哀花様を好きにならない。
哀花様が泰久様以外を好きになることも絶対にない。
二人が結ばれることは無く、哀花様が誰かの物になる可能性も無い。
―――だが、泰久様が少しでも振り向いたら?哀花様の強い恋心に揺れたら?
今まで考えもしなかった可能性が今になって現実味を帯びた形で浮かんできたせいで、死角から刺されたような気分になった。
じくり、と体の端から蝕まれるような感覚が広がる。
サスペンス映画の次のシーンを待つかのような気持ちで泰久様の次の言葉を待った。
泰久様は僕の目を真っ直ぐ見て、―――ゆっくりと口を開く。
「ただの不整脈といえど甘く見てはいけない。WPW症候群やブルガダ症候群、先天性QT延長症候群、急性冠症候群、狭心症といった心疾患が原因である場合もあるようだ。しかし軍の定期健康診断で引っ掛からないことから可能性は低いだろう。それに、今のところ不整脈以外の異常はない。俺は煙草を吸わないし、アルコールやカフェインが原因ではないかとも考えてみたんだがやはりそれでは哀花がいる時だけ鼓動が平生より強くなることへの説明がつかない。原因がよく分からないんだ。早めに専門的知識を持った人間に診てもらうべきかもしれないんだが、お前はどう思う?」
「ぶん殴っていいですか」
身構えて損をした。
そういえばこの男はこういう奴だった。
僕にしては過激な発言をしたことに対し疑問を抱いたのか、泰久様は小首を傾げる。
「いきなりどうした?お前らしくもない」
「ソーデスネ、僕らしくもない愚にも付かぬ心配をしてしまいましたよ。貴方が肝心なところでどこかズレた鈍感であることは重々承知していたはずなんですがね」
「……馬鹿にしてるのか?」
「あーいえいえ、泰久様はそのままでいいんですよ。泰久様が泰久様で安心しました」
自覚が無いのなら無いでいい。
寧ろその方が好都合だ。
泰久様にとって哀花様がただの幼馴染みの枠を越え、多少は女性として意識され始めたのかもしれない。
しかし恐らくこの男はそう簡単には自分の変化に気付かない。
「心疾患を疑うのは早とちりでは?低血圧や貧血でも動悸は起こりますし」
そして僕は、泰久様の言う“不整脈”の正体を教えてやるほどお人好しじゃない。
「……そうか。そうだな」
安心したのかふっと笑う泰久様を見てこちらの方が余程安心したということを、この男は知らない。
―――僕の物にならないのなら、せめて誰の物にもならないでほしい。
いつも僕の胸にあるのは、そんな控えめでいて強欲な願いだった。