深を知る雨
泰久様と別れた後、人気の無い廊下にある自販機でブラックコーヒーを買っていると、後ろから抱き付かれた。
香りですぐに分かってしまうのがいっそ腹立たしい。
「だーれだっ」
隠すつもりもないくせにふざけてそう聞いてきた哀花様は、くすくす笑いながら僕の前方へと回る。
「……見られたらどうするんですか」
「ここ誰もいないじゃん」
僕の手にある缶コーヒーを勝手に奪い、味見して「苦っ」なんてすぐ口を離す哀花様。ブラックは苦手なようだ。
「よくこんなもの飲めるよね」
「珈琲は意外と体にいいんですよ」
「飲むと体にいいと言えば、精液飲むと体にいいみたいな話無かったっけ?あれ?上の口からじゃなくて下の口からの話だったかなぁ?忘れちゃった」
どうしてそういう話題にばかり持っていくのか……と内心呆れながらも哀花様が返してきた缶コーヒーに口を付ける。
「でもフェラ苦手なんだよねー。体に良かったとしても飲みたくないや」
「へぇ。そう言われてみれば僕にしてきたことないですね」
「精液の味がさ、好みじゃないの。初めて口内で受け止めた相手のがすっごい不味くてさ。それからフェラできなくなった。あんなん飲めたもんじゃないよー」
「……」
「ん、どうかした?」
「いえ、何でもありません」
一瞬良からぬ想像をしてしまったが、あまり具体的に考えると下半身が反応してしまいそうなので無理矢理思考を停止し、他の質問を投げ掛ける。
「泰久様に何かしました?」
そう、これが哀花様に今最も聞きたかったことだ。
優香様しか眼中に無かった泰久様が、何故哀花様を今になって女性として意識し始めたのか。それが分からない。
僕が見ている間には何も無かったはずなんだが……と思いながら哀花様の答えを待ったが、
「え?何かって何?」
どうやら哀花様自身は特に何もしていないつもりらしい。
あれは泰久様の内から生まれ出た変化ということなのだろうか。
「あぁ、いえ。泰久様が電波ジャックの件に関して言及なさらないので、珍しいなと思いまして」
「あ、それだよね!ほんと謎!ニュース観てないのかなぁ?ずっとやってるのに」
「ずっと放送していると言っても、最近落ち着いてきましたよね」
「まぁ育成所の取り締まりも終わったみたいだし、国民の注目が他の事件に向くように私が仕向けてるからね」
にひっといたずらっ子のように笑った哀花様は、ふとポケットから端末を取り出し、画面を見て真面目な顔になった。
「……あー、電話だわ。そろそろ行くね。また今度」
僕に背を向け小走りでどこかへ行ってしまう哀花様の手にある端末は、見慣れないもので。
買い換えたのか?と少々疑問に思いながらも、椅子に腰をかけコーヒーを飲む。
哀花様が苦いと言ったブラックコーヒーは、僕にとっては甘いものだった。