深を知る雨
結構な雨が降っている。
Sランク寮に着く頃には、傘を差しているにも関わらず少し足元を濡らしてしまっていた。
いつものように能力でロックを解除して中へ入る。一也の靴がないことから、泰久しかいないことが分かる。
それにしても妙に静かだ。いや、いつも静かな時は静かなのだが、人の活動を感じられない静けさというか。
泰久もう寝ちゃったのかな。
まぁ、それならそれでケーキだけ持って帰ろう。
さっき食べたばかりとはいえ部屋に帰ったら麻里もいるし、一緒に食べてもらえば食べきれるだろ、うん。
そんなことを思いながら居間に入ると――――薄暗い室内で、テーブルに突っ伏している泰久が目に入った。
この部屋の照明は室内の人間が寝ると自動で暗くなる仕組みだ。
この薄暗さは、泰久が今浅く眠っていることを示している。
……起こした方がいいのかなぁ。
いや、やめとくか。やっぱケーキだけ取って帰ろう―――そう思ってそろりそろりと泰久の隣を通過した、その時。
「、」
椅子から立ち上がる音が聞こえたのと、後ろから強い力で腕を回されたのは、ほぼ同時だった。
……いい匂いがする。泰久に抱き締められていると理解したのは、そんなことを感じた後だった。
ちょっと照明さん仕事して!泰久起きたよ!照明明るくして!この状態で暗いと変な気分になるわ!
「……泰久、どしたの」
回された腕の力が冗談っぽくないというか、じゃれるという言葉では片付けられない真剣みを感じ、緊張して途切れ途切れに聞けば、泰久はそのまま私を引き摺る形で部屋の中央まで私を持っていく。
……な、なんだ、どうしたんだ。
勇気を出して泰久を振り返れば、暗いけれど十分に分かった。―――泰久が酔ってること。
頬がほんのり赤く、目がとろんとしている。
さっき泰久がいたテーブルをもう一度よく見れば、やはりお酒を飲んでいたであろうことが窺えた。
「泰久お酒弱いんじゃなかった!?」
慌てて泰久から無理矢理離れ、大丈夫なのかと正面から顔色を窺うと、何故か思いっきり睨まれてしまう。ヒエッ。
「……弱くない」
「そ、そっか。でもちょっと酔ってるよね?私に抱き付くくらいだもんね?」
「酔ってない」
酔っ払いはみんなそう言うんだ!と言い返そうとしたが、泰久が今度は正面から覆い被さってきたことでその言葉は喉の奥から消えた。
「ちょ、ちょ、泰久!もしかして私のことお姉ちゃんと勘違いしてる!?」
「ん、哀花…小さいな…」
名前を呼ばれたことで相手が私であるという認識はしているらしいことを知る。
泰久の頬はやや紅潮しており、更にはにへら、という擬態語がぴったりな笑い方をしている。
―――その手がするりと服の中に入ってきたことで、いよいよ焦りが生じた。
「ややややや泰久すゎん!?ねぇちょっと!?正気に戻って!?」
「ん、俺、正気…」
「正気じゃない奴はみんなそう言うんだ!」
「何だよ、色んな男に抱かれたくせに……俺は嫌なのか」
――――血の気が引くとは、こういうことを言うのだと思った。
「あんなに好き好き言っておいて酷い奴だな」
――――知られたくなかった。絶対に知られたくなかった。
泰久の前では、純情な少女でいたかった。
なのに。
「俺だってお前を抱くことくらいできる。…はぁ、哀花……可愛い…」
そんな私の気持ちなんて知るはずもない泰久は、息を荒くしながら私の耳にキスしたかと思えば、今度は首筋へとその唇を下ろす。
抗おうとしたが、私より軍人歴が長いだけあってやはり本気で抵抗しても勝てない。
全身を使って抵抗してみたのだが、泰久はとろんとした目のままいとも容易く私を後ろのソファベッドに押し倒す。
……これは、まずい。本当にまずい。
「泰久?私これでも一応女の子でね?好きな人にこんなことされたら心臓バクハツするっていうか」
「こら…逃げるな……」
「そりゃ逃げようともするわ!泰久絶対酔いが冷めたら後悔するよ!?マジでやめた方がいいよ!?聞いてる!?私の声届いてる!?」
逃げるのは無理そうなのでとりあえず何とかうつ伏せになって身を硬くするが、泰久は私が全身で拒否する意思を示しているにも関わらず、うなじやら耳元やらにキスしてくる。
こんな場面を妄想してにやにやしたことが無かったわけではないが、実際そうなってみるとときめきより焦りが勝つ。
泰久は酔ってるし処女じゃないってことバレた後だし、こんなのは私が望んだ形じゃない。
泰久の手が下着の中に入ってきて、ああもう駄目だ―――と泣きそうになった。
「……随分反応してるな」
ぼそりと言われて気付いたが、こんなに焦っているというのに、私の身体は既に準備万端らしかった。
いつもならこんな早く反応したりしない。泰久にこんな目で見られてるからだ。泰久に押し倒されてるからだ。
好きな人に女として見られるだけで他の男を相手する時よりずっと早く身体が反応するのだから、女という生き物の身体と心は密接な関係があるのかもしれない。
―――でも、だめだ。こんなのはだめだ。
抗え、抗え、抗え……!
「…ッジで……!やめろこの酔っ払い!!」
精一杯の力を出し、泰久を蹴り飛ばした私は、そのままソファベッドから飛び降りた。
「よ、酔っ払った勢いで襲われても嬉しくない!」
泰久と距離を取り、服を直しながら叫ぶ。
「私のこと好きじゃないくせに!微塵も女として見てないくせに!」
混乱しすぎてボロボロ涙が出てきた私を、酔いが覚めたらしい泰久は呆然と見てくる。
「泰久の馬鹿!ちんこもげろ!」
そう叫んで走り出ようとした私の手首を、泰久が強い力で掴んでくる。くそ、捕まった。
「……悪い」
「わ、悪いって、それで済むと思ってんの、」
「怯えさせるつもりじゃなかった」
泰久の声音がいつもと同じものに戻っていることに気付き、いくらか安心を得た私は、少し体の力を抜く。
「……さっきみたいなこと、他の女の子にしちゃだめだよ」
「するわけないだろ」
「……じゃあ何で私にはしたの?」
「……分からない」
「はぁん!?あーもー分からん!私には分からん!泰久という生き物が分からん!」
「ただ、動揺したんだ。お前の男性経験を聞いて」
……一也から聞いたわけだ。
だから“すみません”だったんだ。
「そんな素振り見せなかっただろ。今までお前に恋人ができたという話も聞いたことがない」
そりゃそうだ、私がずっと隠してたんだから。
この8年ずっと。私は泰久の前で自分を偽り続けてきた。
「…………どう、思ったの、私のこと」
私はずっと、妹ポジションを捨てたいけれど捨てたくない、そんな矛盾を抱えてた。
だけど今、私の予想だにしないタイミングで、私は泰久の妹的存在ではなくなってしまった。
「私、泰久が思ってるような“少女”じゃない。純情さも初心も妹みたいな可愛さもない。……私を見る目、変わったでしょ」
「俺にどう見られるかを気にして今まで隠してたのか?」
「そりゃ気にするわ!好きな人にどう見られるかって女の子にとっては凄い重要なの!分かる!?ドゥーユーアンダスタンッ!?」
力説する私をじっと見つめた後少し視線を外した泰久は、
「……一也の言っていた“欲求不満”というのはそういう意味か。はっきり言わないあいつもあいつだな」
思い出したかのようにそう独り言を言って、再び私に向き直る。
「分かった」
「え?何?何が分かったの?何かまたぶっ飛んだことを言われそうな予感がするぞ?」
「澤小雪との体の関係は切れ」
いや、もう切れてますけど。
一也め、そこまでバラしたのかよ……と恨めしく思っていた直後、とんでもない殺し文句が飛んできた。
「触れてほしいなら俺が触れる」
…………時よ止まれ。一時停止してくれ。
今の言葉を味わう時間をください。色々と整理する時間をください。頼むから。これ以上は本当に危ない。何だこの展開は。死にそう。
「何をされたい?」
「も、もう十分です…………今日はもう帰らせて…………」
「そういうわけにはいかない。お前を欲求不満にさせている原因が俺なら、俺が責任を持ってお前を満足させるべきだろう」
「満足させるとか言うな!やらしいわ!言い方がやらしいわ!」
「別に何も変なことは言ってない」
この男正気か。自分が何言ってるか分かってるのか。
え?何?何でもしてくれるってこと?
いいの?そんなこと私に言っていいの?下心が顔を出してしまうよ?
「…………………じゃあ、1日1回ハグ」
「分かった」
「ぎゃああああああああああもういい!もういい!今日はもういい!明日から!」
躊躇うことなくまた手を回してこようとした泰久に対し激しく抵抗し、何とか逃れることができた。
怖い、怖いよこの人。私がダメ元で頼んだこと実行しようとしてきてるよ。
私を殺しにかかってる。
「と、とりあえずほんとに今日は帰る……。泰久、もう2度とお酒飲まないでね……」
よろよろと冷蔵庫まで行きケーキの箱を持って弱々しく泰久に忠告した。
何だこれ、下手な超能力攻撃よりダメージ食らった気分だわ。
「じゃあ…………おやすみ……」
そう言って部屋を出ていこうとした私に、ふと泰久がおまけのように淡々と感想を述べた。
「お前、抱き心地いいな。初めて知った」
――――その日、私は気持ちを落ち着かせるために傘も差さずEランク寮の周りを20周する羽目になったのだった。