深を知る雨

誰かの話





 《23:00 マカオ》



美しい夜景の一部の、高層ビル最上階。

それは、男が賭博に負けた女を使っては捨て使っては捨てを繰り返していた、あの部屋だった。


「いい子にしてました?」


男は毎日のように軍を抜け出し、そこへ足を踏み入れる。

以前はそれほど頻繁に顔を出してはいなかったのだが、そこにいるのが偽物でなく本物となれば話は別だ。


手枷、足枷、首輪。

男が頭の中で何度も壊してきた女本人は、椅子に座らされた状態で拘束され、食事も排泄も男に管理されていた。


「今日の相手はどうでした?筋肉質だったので連れて来ましたが、うまく貴女を汚せましたかね」


男は毎日力の強い人間をこの場所に連れてきては、女に暴力を振るわせた。


男はこのように考えていた。

“自分はこの女性のように綺麗にはなれない。ならばこの女性が醜い姿になればいい。”

“そうすれば、この女性と自分は同列になる。”


「………痛、かった」
「へえ…」


力の入らない女の弱々しい返事に対し、男の目が妖しく光る。


「どれくらい、どんな風に痛かったの?」


珍しく優しい口調とは裏腹に、男の指は女の傷口をなぞり、ヒリヒリとした痛みを走らせる。


「……ッ、いた、痛い、……」
「……ああ、成る程。筆舌に尽くし難い痛みだったんですね」
「……ッ、ぃ、……」
「哀花様は痛がっておられる顔も可愛らしい」


男は女に口移しで抑制剤を飲ませた。

無理に飲まされた女は男の唇が離れた途端咳き込み始めるが、男はその様子ですら愛しそうに見つめる。

「げほっ、……っ…」
「ああ、すみません。超能力抑制ガスだけじゃあなたの能力を完全に封じることはできませんからね。対策を講じるのは当然です」


クスクスと。男がそんな風に幸せそうに笑う姿を、女は初めて見たように感じた。

あまり、笑わない男だった。


「さて、と。ちゃんとご奉仕してくださいね?歯を立てたら怒りますよ」


男は自身の一物を取り出し、促すように女の頭を優しく撫でる。

しかし、女はなかなか動かない。


「……ああ。フェラはお嫌いなんでしたっけ?精液の味が苦手だとおっしゃってましたよね。“飲めたもんじゃない”と。それを聞いた時僕が内心どう思ったか知ってます?あなたを監禁して食事をさせず、飢えたあなたに精液だけを与えて、生きるため必死に僕の精液を飲もうとするあなたが見たいと思いました」


男はその内に怪物を飼っている。

男を異常へと導く怪物を飼っている。


「今なら、その気になればそうすることができるんですよ?だから、ほら、ね?嫌なら自分から僕の味を好きにならないとダメですよ?」


男の中の異常と正常の境界は消え、異常は正常を侵食していた。








 《21:00 ロンドン》



「あー、こりゃ、監禁されてるなぁ」


男は料理が運ばれてくるのを待ちながら、ふと確信したように言う。

男の影響下にある女が、ある一定の場所から、ここ数日全く動いていない。

動けない状態であると断言していい状況である。

そのようなことをする可能性のある1人の男の顔を思い出し、男はやれやれと溜め息を吐いた。


「最初っからヤバそうな目してるとは思ってたんだよねー」
「相変わらず独り言が大きいわね。ロイ・エディントン」


男の正面に座るのは、青色の瞳と茶系の髪を持つ、比較的大柄な女性――大英帝国の元帥である。

今日も彼らは高級レストランで会っていた。


「あぁ、いえ、すみません。愛娘が拐われたようで」
「……そういえばあなたは、彼女の居場所がいつでも分かるんだったかしら」
「ええ。彼女には俺の強化能力の影響がまだ強く残ってるんでね」
「強化能力?」
「俺の持つもう1つの能力です。DランクからSランクに努力だけでなるなんて、そんな都合いい話あるわけないでしょう。彼女がSランクになれたのは、彼女の多少のセンスと、俺の強化能力があったからですよ」


強化能力者の中には、強化能力で強くした対象の居場所が分かるようになる者がいる。

彼もそのタイプであった。代わりに、その対象の方からも自分の気配がある程度分かるようになってしまうのだが。

しかし、女はその話を聞いてふっと馬鹿にしたように笑った。

この男の目もまだまだだと。


「強化能力でDランクからSランクに?それこそ、そんな都合いい話あるわけないじゃない」
「……へえ。そう思われますか?」
「強化能力を利用してなれたとしてもBランクよ。あとは全部、彼女の努力。あなたの言う通りね、ロイ・エディントン。次の戦争のキーパーソンはきっと橘哀花だわ」


女の言う通り、男の強化能力を使ってもSランクになることは難しいことであった。

橘哀花がSランクになれたのは、彼女の努力、センス――そして負のエネルギーにするには十分な、多大なストレスがあったからであろう。

底知れない力を持った女性だ。野放しにしておくには危険すぎる。


「彼女は一ノ宮一也の手元に置いておく必要があるわね。戦争が終わるまで」
「……一ノ宮一也に手を貸すと?」


男の質問に対し、女はにこりと笑って肯定を示す。

そこで男はここ数年何度目かの違和感を覚えた。


違う、違う――……何かが違う。


いや、違わない。完璧すぎるほど、何も違わない。


「……ナディア元帥。あなたは一体……、」


そこまで言って、男は口を閉ざした。


「……いえ。何でもありません」


男がこの問いを改めて口にする日は、数ヵ月後のこととなる。




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