深を知る雨
一也は緊張を表に出さないよう、浅く息を吸う。
「あの。聞きたいと思っていたのですが、橘家にはかなり高レベルな能力者がいるのではないですか?」
「……あぁ。何故?」
「いえ。前を通った時、相当な強さの結界の気配を感じまして」
「ああ……それは優香だろうな。あいつは軍から信頼を得て一部の機密情報を自宅で管理してる。あの結界は相当な実力者じゃないと解けない」
自分のことでもないのに得意気に話す泰久を見て、一也はすぐ、泰久がその優香とやらに憧れていることが分かった。
泰久のような存在でも憧憬を抱く“橘”。
過去に自分に血を分けた相手。
一体どんな娘なのだろうと、一也は心を踊らせた。
「あぁ、こんばんは。初めまして、護衛の一ノ宮一也くん」
一也は優香を見た時、確かに綺麗な女性だと思った。
質の良い短髪、すらりとした足、程好く鍛えられた体、ぱっちりした目――控えめに言って美人の部類に入る。
一也は彼女の持つ独特の雰囲気に惹かれた。
しかし、同時に失望もした。萎えた、という表現が適切かもしれない。
「あたしは優香。泰久のことちゃんと守ってやってね?……つっても、そいつ護衛なんていらなさそうだけど」
――出来すぎている。
自分に対し何の感情も抱かない、差別意識の欠片もない――まるで“一ノ宮”を知らないかのように。
金甌無欠、善良な人間。そういう印象を受けた。
これでは自分を助けて当然だ、と一也は思う。
彼女にとってそれは当たり前な行為の1つで、自分にとってあの日が命を救われた大切な日であっても、この女にとっては日常の一部でしかない――そのことがショックだったのかもしれない。
そしてその気持ちは、優香と関わる機会が増すごとに疑念へと変わっていった。
見ているうちに分かったことだが、一也からしてみれば、優香という女性は酷く薄っぺらかった。
完璧に造り上げられた外面。
常に周囲の評価を気にしながら行動する計算高さ。
こんなものかと。
一ノ宮家への差別が盛んだった頃に、自分に血を分けようなんて馬鹿なことを考えた人間は、こんなものかと思った。
きっと彼女は、出会った時あの場に泰久しかいなかったからこそ何とも思っていない態度を取ったのだ。
もしあの時周りに一也を差別する人間ばかりがいたならば、彼女は彼を見た瞬間嫌な顔をしただろう。
周囲の一ノ宮一族への差別を無視してまで血を分けるような人間には到底思えない。
彼女は上手く生きる術を知っている。
自分に何を求められているか瞬時に理解し、臨機応変にそれを実行してみせている。
それほどまでに――――橘優香という人物は、ある種賢い女性だった。
泰久や優香の傍にいて、一也は徐々に2人を嫌いになっていった。
いや、嫌悪していたというよりは、見るに耐え難いものがあったのだ。
能力、地位、金、名誉……生れつき全てを持っている連中である。
彼ら2人を見ていると、一也はいつも自分との格差を思い知らされた。
それでも一也は彼らの傍にいた。
自分を救った“橘”に会うこと、そしてお礼を言うこと――それが一也の5年も目標としていたことだったから。
その目標を見失ってしまえば、一也は自分が何のためそこに立っているのか分からなくなってしまう。
護衛として軍に入ることを勧められたため、謂わば流れで一也は軍人となりさえした。
それまで家から軍に通っていた泰久も、その頃になると寮に入ることを希望しており、当然そうなると一也もそちらへ行くことになる。
軍では当時強力な超能力者が不足しており、そのうえSランク能力者ともなると入隊が容易だった。
そんなある日、同じSランク寮に住むことになったということもあり、漸く優香と2人きりになることができた。
一也は優香に「覚えてらっしゃらないかもしれませんが」に続けてお礼を言った。
期待はしていた。もしかしたら自分の望む返答が返ってくるのではないかと。
だが同時に、自分が求めているような答えは得られないだろうと諦めていた。
しかし、返ってきたのは一也の予期していたどんな返答とも違うもので。
「――それあたしじゃないわよ」
「……は?」
その言葉を聞いた時、一也は優香が自分が献血したことを覚えていないだけだと思った。
「この地域の“橘”よね?じゃあもう1人いるわ。そういうことしそうな“橘”サン。あたしなら絶対しないけど」
「そんなはずはありません。僕だって調べました。あなたの記憶にないだけなのでは?」
「あたしが自分のしたこと忘れるわけないでしょ?日頃から他者を欺くために嘘を吐くことの多い人間は、矛盾が生じないよう自己の言動の1つ1つをちゃーんと覚えているものよ」
それが優香の正直な気持ちであることは分かる。
……だが、ならばもう1人の“橘”とは誰なのか。
「橘家の娘はあたしだけじゃない。あたしの5つ下に、もう1人いる。そういや君は会ったことなかったわね」
「……え」
一也から出た間抜けな声を聞き、優香は可笑しそうにケラケラ笑う。
確かに、よくよく考えてみればおかしな話だ。
あの時看護師は“小学校の”鞄と言った。
5年前ならば、おそらく優香はギリギリ中学生。
小学校の鞄など背負っていないはずなのである。
「イイ顔するね、君。意外とまだ人間らしい部分残ってんじゃない」
「……どういう意味でしょうか」
「あれ、それ聞き返しちゃう?自覚くらいあんじゃないの。人殺しの目してるわよ?君」
優香が冗談を言っていると思った一也は、笑い返そうとした、が。
「それも結構な人数を殺してるわよね。……ああ、でも直接殺したのはそんなに多くないのかな。催眠能力持ってんだもんね?直接殺したのは精々2人……もしかしてご両親?一ノ宮ってフツーに人殺してるみたいだし、それが君にとっての常識だったのかしら?“いらなくなったら捨てる”……君にとってはご両親も例外じゃなかったのね」
当然のようにペラペラ言い当てる優香の挑発的な笑みを見て、ぞくりと一也の背筋に悪寒が走った。
「…………調べたんですか?」
いや、そんなはずはない。
一族は皆殺しにしたし、死体の処理を任せた人々にもきっちり催眠を掛けてある。
例えどんな拷問を受けようとあの惨殺に関わった人間が口を滑らせることは有り得ない。
(……この女は、何だ?)
「ある程度はね。君の催眠強力すぎて、人間からは情報を得られなかったわ。分からない部分は憶測でカバーしただけ」
人間からは情報を得られなかった――つまり、機械のカメラや人間以外の動物から情報を得た、ということだ。
「ねぇ、何で君が泰久の護衛として採用されたか分かる?」
「それは……、」
「あたしがオーケーって言ったから。君は安全だって報告したからよ」
「……」
「あたしは君を軍に入れたかったの。Sランクレベルの能力を持つ君を」
そう。一也が信頼を勝ち得たのではない。
東宮家から、いや、誰からも信頼されている橘優香が、是非この男を護衛にすべきだと言ったから一也は東宮の家で働くことができるようになったのだ。
「恩はちゃんと返しなさいよ?君にはちゃーんと日本帝国軍の戦力になってもらわないとね」
全ては優香の掌の上。
優香は周囲を自分の思い通りに動かすことに長けていた。
「……泰久様の護衛として働かせてもらっていることを、僕は恩とは感じません」
「なーに、まだ不満ってわけ?」
「もう1人の“橘”に会わせてください。そうすれば僕は戦力だろうが道具だろうが何にでもなる」
今までだって、そうだったのだから。
「へぇ……あたし相手に交渉ね。いい度胸してんじゃない」
優香は一也の強気な提案に目を細めながら、暫し考えた後ふむと頷く。
「まぁいいわ。命の恩人に会いたいって気持ちは嘘じゃないみたいだし、今度の休暇に会わせてあげる」
優香が誰かを自分の妹に紹介ようとしたのは、泰久を除いてこれが初めてのことだった。