深を知る雨
狂
優香が死んだ日、一也は哀花の元にいなかった。
だから一也は、哀花が優香の死を聞いてどんな反応をしたのか実際には見ていない。
まもなく限界を感じた日本帝国は降伏し、戦争は終結した。
優香の死後、一也が哀花の変化でまず一番に気付いたのは、その男癖の悪さだった。
キスマークやら噛み痕やら、それまでには無かった内出血の印が隠す気も無さそうな位置にくっきりと付き始め、それも日によって場所が違うのだから哀花に男がいるというのは想像に難くなかった。
更に相手に多少の嗜虐趣味があることは、縛られた痕や鞭でできたらしき痕からして分かった。
たまたまそういうことを好む相手だったのか、それとも哀花が選んでそういう相手にしたのかまではその時の一也には分からなかったが、どうやら相手が1人ではないらしいことを知ると、いよいよどうしたものかと思い始めた。
綺麗な言い方をすれば、哀花が心配になったのである。
同時に、自分の知らない場所で哀花が性的な意味で酷いことをされていることに思いを馳せ妙な昂りを感じもしたのだが。
そんなある日、学校側からの連絡により、哀花の男関係について哀花の親が知ってしまった。
きっかけは哀花が痴情の縺れで同級生に刺されかけたことだった。
複数人と関係を持っていた分、恨みを買うことも多かったようで学校では何度か問題を起こしており、見かねた教師が家に電話を入れたのだ。
哀花の母親は男女関係において潔癖――結婚する相手以外とセックスをするのは有り得ないこと、下品なことという意識の強い人間だった。
故に、彼女はそれまでにない程激怒した。
「汚ならしい!そんな子に育てた覚えないわよ!」
哀花の母親がヒステリックに叫び、哀花を平手打ちし、汚い汚いと何度も罵るその場面に、たまたま家を訪れた一也は遭遇したのだ。
「あんた自分が何歳だと思ってんの!」
「……」
「まだ未成年でしょ!?」
「……」
「お母さん悲しいわ!大事に大事に育ててきた娘がこんなことになって!いつ育て方を間違えたのかしらねえ!?」
「……」
「どうして優香みたいにできないの!?優香と同じ血が流れてるのに!どうしてお母さんの思う通りに育ってくれないの!?」
優香の男関係もだらしない方ではあったのだが、優香はその事実を巧みに隠していたため、そのことを母親が知る由もない。
姉だって男遊びはしていた、論点がずれていようとそう言い返せばいいのに、哀花はこういう時に限って諦めたように何も言い返さない。
「あんたって子は昔っから駄目ね!ほんと、何から何まで優香と違ったもの!」
「……」
「あんたなんか私の子供じゃない!」
「……」
「何か言いなさいよ、出来損ないのクズ!!」
叫びながら蹴り飛ばすその様子を見かねた一也は、能力を使用して哀花の母親を黙らせ、退場させた。
優香が死んだことにより結界が弱まっており、橘家の敷地内でもうまく超能力を使用することができた。
「哀花様。少し外へ出ましょう」
親のことは超能力でどうにでもできるとはいえ、この家にいるのは哀花としても嫌なのではないかと思い、一也はそう提案する。
「……いいよ。ありがとね、気ぃ遣ってくれて」
ぶたれた頬を押さえながらへらりと笑う哀花。
その手には刃物で切りつけられた痕があった。
「……あなたの母親はどうだか知りませんが、僕はあなたが心配ですよ」
「あー、これ?いいのいいの、自業自得だから」
「そういう問題じゃありません。今回は軽傷で済んだものの、あなたボンベイ型でしょう。もし血が足りない状態にでもなったらどうするんですか」
「……何で知ってるの?言ったっけ」
(―――知っていますよ、そりゃあね)
一也は心の中だけでそう返事し、不思議そうに首を傾げる哀花に思いきった質問をした。
「哀花様。どうして男遊びを始めたんですか?」
「あは、ド直球だなぁ」
へらり。また哀花が笑う。
「以前はしていなかったでしょう。優香様の真似事ですか?」
「気分だよ、気分。そういう気分だったの。そういう欲求も出てくる年頃っていうか?」
へらりへらり。哀花がまた、一也にとって目障りな笑い方をする。
「……僕の前で、そんな風に笑わないでください」
「えー?笑うなって酷いなあ。もしかして悲しい顔してた方がい、」
「――無理して笑うなっつってんだよ!」
一也の中で何かが爆ぜた。
一也の蹴り飛ばした近くの椅子が、音を立てて倒れてゆく。
突然変化した一也の喋り方に驚いたらしい哀花は、その表情から笑顔を消した。
そして数秒一也を見つめたかと思えば、まるで幼い子供が純粋な疑問をぶつけるような態度で、問う。
「――じゃあ一也が慰めてくれるの?」
今度は一也が驚かされる羽目になった。
「……は?」
「私が無理して笑わなくて済むように。一也が私のこと満たしてくれる?」
「……何を言ってるんだか、」
「分かってるくせに」
哀花の手が一也の体に触れ、その表情を見た一也は、まずいと思った。
これまでにないほど蠱惑的な笑みを浮かべる哀花に対し――“僕はこの女に狂う”、そう思った。
「ベッド行こーよ、一也」
「……困ります」
「“心配”なんでしょ?行動で示してよ」
躊躇いはあった。
泰久に知られれば嫌な目で見られるであろうこと、何より自分が触れれば哀花は穢れてしまうのではないかという不安――それらが一也にブレーキをかけていた。
(……んのクソ女、こっちの気も知らねぇで)
慣れた様子で自身の太股を股間に入れてくる哀花に酷くムカついた。
いつの間にそんな女独特の甘ったるい声を出せるようになったんだと苛ついた。
いつの間にそんな色っぽい表情ができるようになったんだと妙に不安になった。
自分に血を分けた時の彼女は、まだ小学生だったというのに――どうしてこう、成長が速いのか。
(殺してやりてぇ)
いっそ今ここで窒息死させてしまえばこれ以上成長しなくなるのだろうか、と、一也は哀花の口を唇で塞いだ。
それから哀花を自分がどのように抱いたのか、一也はよく覚えていない。
ただ断片的な記憶だけはあり、「痛くしていいよ」と囁かれたことは覚えている。
「大っ嫌いな自分が虐げられてると思うと最高に興奮する」と哀花が言っていたことも朧げに覚えている。
夜の作法に関して秀でている自信はあった。
一ノ宮一族の一員として、幼い頃から女を狂わせる方法は一通り学んでいた。
女なんて所詮子宮に支配された雌――相手を問わず、そういう意識は一也の中に多少なりとも存在していた。
それを分かっていて、一也は哀花に対し容赦しなかった。
狂えばいいと思った。
自分との性交に依存すればいいと。
あわよくば離れられなくなればいいとも。
しかし、一也との関係性が一変してからも、哀花は平然としていた。
哀花にとって一也は、数あるセフレの内の1人でしかなかった。
一也が軍での仕事で相手をできないと言えば、その分の性欲処理を他の男に頼むとあっさり言い出す。
だから一也は、超能力を利用して仕事をほったらかしてでも、哀花にせがまれた日には哀花の元へ行くことにした。
自分のいないうちに哀花が他の男に抱かれるのではと思うと気が気ではなかった。
結果的に一也の方が悶々とさせられることになり、哀花との性交に依存と言っていい程執着したのも一也の方だった。
(……僕の方が、生殖器に支配された雄じゃないか)
そう自嘲的になることも度々あったのだが、それでも一也は哀花への衝動を止めることができなかった。
橘哀花という女は本当に残酷な人間だと思った。
哀花は自分の気も知らず体だけを許しては、気分に従い躊躇うことなく他の男の元へ行く。
一也は未だに、哀花に対する自分の感情に名前を付けることができない。
情と呼ぶには歪すぎ、恋と呼ぶにはおこがましい。
けれど哀花の傍にいたい、その気持ちだけは本当だったのだ。