深を知る雨
「僕が何をしたか忘れたんですか……!」
沸き上がってきたのは怒りだった。
どうしてだか分からない。
こんなことがあっていいはずがないと思うのだ。
この人は強い。
僕が思っていたよりもずっと強い。
そしてその強さを利用して、今、こんなにも下等な僕を救おうとしている。
「そういうところがムカつくんですよ!誰彼構わず助けようとして、どんなことをされてもヘラヘラ笑ってる!ちょっとは抗ったらどうなんです?殺したいでしょう?殺したいほど憎いでしょう?今まで散々痛い思いをさせられたんですから当然です。僕はこういう人間です、ずっとあなたを傷付けたくてたまらなかった、僕の手で壊してしまいたかった……!これからもきっと変わらない、あなたをいつでも抱き潰したいし管理したいし支配したい!例えあなたが辛い思いをしようがあなたの泣き顔が見られたら本望なんです!僕はこういう人間です、あなたを大切に思えば思うほど破壊衝動を抱く異常者です!犬に餌をあげたら付いてくるに決まってるでしょう?あなたは何も分かってない。そうやって優しくされるから、僕は余計に苦しくなるんだ!」
だめだ、何言ってるんだ僕は。
さっさと逃げろ。本来の目的を忘れるな。
僕はこの人の残りの人生を――……。
「頑固だなー。痛い思いしていいっつってんのに」
うまく動けるか確認するために腕を回しながら、哀花様がこちらに近付いてくる。
「これはお願いじゃなくて命令だよ、一也」
その小さな身体が、恐れる様子もなく僕の前に立つ。
「私を好きにしていいから、私たちの傍にいて」
敵わないと思った。
僕はこの人に一生敵わない。
縛り付けようと能力を封じようと、この人の根底にある力はこの人の中で働き続ける。
そしてその力は、15年前僕に奇跡を起こした力なのだ。
泣き顔を見られたくなくて、その小さな身体を抱き締めた。
救われた、と思うのだ。
この人は2度も僕を救った。
こんなことをしても傍にいてくれと言うのだ。
僕の汚い部分を散々見ても、僕を救いたいと言ったのだ。
そんな救世主に、逆らえるわけがないじゃないか。
誰かにありのままの自分を晒け出し、その姿を受け入れてもらえることを、この世界ではきっと幸福と呼ぶのだろう。
「……好きに……していいんですね?」
「おう」
「頻繁に抱きたいです」
「おーいいよ」
「一緒にお出掛けがしたいです」
「あーそういえば一也と2人ってなかなかないよね」
「僕といる時は、泰久様の方ばかり見ないでください」
「お、おう……できる限りは……」
「一緒にお昼寝がしたいです」
「うーん、まあする時間があればね」
「たまに泣かせたいです」
「玉ねぎ切るわ」
「僕の名前を身体に入れてほしいです」
「目立たない場所ならどうぞ」
「哀花様のアナルバージン、実はちょっと欲しいです」
「お、おう……」
「……自殺……しないでほしいです」
言おうか言うまいか躊躇いながら、何とか言葉になったその内容に対し、
「…………何それ?」
哀花様は心底意味が分からないという風な顔でこちらを見てくる。
「え?私が自殺すると思ってんの?」
「優香様の後を、追おうとしているのかと……」
「いやそれはない!それはないよ!一也そんなこと考えてたの!?ぶはは!」
ゲラゲラ笑いながら否定され、安心と共に今まで悩んできた苦労は何だったのかと感じた―――その時。
背後でドアの開く音がした。
振り返ると同時に、僕の体が飛んだ。
重い重い拳だった。
今まで受けたどんな暴行よりも痛いと感じた。
それは、泰久様の本気のパンチだった。
本気の怒りを感じられた。
「勝手に家出するな、お前ら」
しかし、その声は思いの外柔らかいもので。
「――帰るぞ」
座り込む僕に、差し伸べられた手。
……何も、聞かないのか。
どうしてこんなことをしたんだだとか。
なんてことをしてくれたんだとか。
言うことは何もないのか。
その手を取れずにいると、隣の哀花様がふと思い出したように言う。
「一也は、まずは私たちへの様付けをやめなきゃね!」
「はい……?」
「ここに来て知ったけど、一也って本来乱暴な口調なんじゃん。私たちの前ではずっと隠してきたんじゃん。そういうの嫌じゃん。せめて名前だけでも呼び捨てにしてよ」
「いや、長年呼んできましたし、今更変えるというのも、」
「キーッ!私は前からずっと言ってんのにまたそれか!」
哀花様は地団駄踏んで怒りを顕にする。
「そうだ、こうしよう!今度から様付けペナルティ発生させよう!様付けする毎にエロ本奢ることにしよう!」
それはただあなたが欲しいだけなのでは。
「……呼び捨てなんて、そんなおこがましいこと……」
それに今この状況で話すことでもないような気がするのだが、哀花様はまるで不良のようにキレてきた。
「あぁん!?もっぺん言ってみろゴラァ!てめぇ私の言うことが聞けねぇってかぁ!?」
「……………………哀花……さん」
「うん、まぁ許容範囲かな!ほら、泰久のことも呼んでみて!」
「泰久」
「俺は躊躇いなく呼び捨てなのか……」
困惑するような声を出した泰久は、いつまでも手を取らない僕に焦れたのか強引に引っ張って立たせてきた。
……この人たちはおかしい。
何でこんな、何も無かったみたいに僕に接することができるんだ。
「言ったじゃん、泰久は一也のこと好きだって」
「……」
「私たちは一也と日本帝国に帰れたら何でもいいよ」
「……あなた方は寛容が過ぎる」
「お前だからだ」
僕の腕から手を離した泰久は、強い眼差しを僕に向けて言った。
「お前じゃなかったら殺してる」
……この男は、超能力抑制ガスが充満するこの部屋に、何の対策もせず入ってきた。
自分だけが超能力を使えない圧倒的不利な状況でも、怖じ気づくことなく入ってきた。
本当の意味の丸腰で、哀花さんと――僕を迎えに来たのだ。
「帰ろっか、一也」
哀花さんが微笑むと、泰久も付いてこいと言わんばかりに歩き出す。
……ああ、そうか。
この2人が好きなのだ、僕は。
だから戦争が始まるまで関係性を維持しようとした。
さっさと哀花さんを拐おうとはしなかった。
せめて戦争が始まるまでは――3人でいたかった。
あの日。
哀花さんを拐ったあの雨の日、確かに僕たちの関係性は崩壊した。
しかしそれは終結ではなく、新しい関係性の始まりを意味していたのだろう。
“雨降って地固まる”――――嫌な雨が、かえって都合良く地面を固めてくれるように。