深を知る雨
核
事の発端は、橘優香がハン・ジュノンに接触する少し前に遡る。
超能力部隊隊員である紺野芳孝は退屈な日々を過ごしていた。
戦争が始まればいくらか刺激的になるだろうと思っていたのだが、芳孝にとっては戦争という非日常も、予想していたよりつまらないものだった。
芳孝の期待している憎悪や騙し合いは、終盤の方にならなければ見られないらしい。
近況報告のため欠伸をしながら司令官室へ向かっていた芳孝は、ふと立ち止まった。
「一般人を巻き込んでんじゃないわよ!!」
司令官室の方から、女性とは思えない程の怒鳴り声が聞こえたからだ。
防音対策もされていない部屋を司令官室にしてるのかこの軍事施設は、と呆れながらも芳孝は中へ入った。
「それじゃ200年以上前の戦争と同じじゃない!君ら成長しないわけ!?」
橘優香。噂はかねがね耳にしている。
Sランク能力者である芳孝は、しかし目立つことを嫌って自身のランクを隠しているため、優香とは寮が別だ。
だが、あまり関わりがなくともその名を耳にするほど、優香は日本帝国軍の中でも優秀な能力者だった。
「……どうされたんですか」
「ああ、聞いてくれよ紺野くん。予知課からドクイツが我が国に爆弾を落とすという未来が報告されてね。しかし影響範囲が不明瞭なうえ正確な日付も分からずどれほどの被害になるかも予想できない状態だし、正直そちらまで手が回らない。優先すべきはドクイツへの攻撃だと言っているんだが……」
司令はちらりと優香の方を見る。
優香は今にも噛み付きそうな顔で司令を睨み付けている。
他国に威嚇する場合、軍事都市以外に攻撃するのは国際法違反だ。
相手国の暴走が止まらない等やむを得ない場合のみ無遠慮な攻撃が許されるとされるが、国際的な繋がりが薄まってきた今日では、国際ルールなど破ったもの勝ちな部分がある。
1度敵国の軍事都市以外に攻撃すればそれを口実にやり返されることは確実なため、当然リスクも伴うのだが。
「一般国民を守るのがあたし達軍人の仕事でしょう」
「聞き分けてくれ橘さん。多少の犠牲には目を瞑ってもらいたい」
「影響範囲が不明瞭ってことはそれだけ万一の場合に備えた方がいいってことなんじゃないんですか?」
「対策の仕様がないだろ。分からないことが多すぎる」
「でしたら日本帝国の防衛は全てあたしがします」
突然何を言い出すのかと、芳孝も司令官も眉を寄せる。
「ドクイツへの攻撃はそちらでどうぞ。あたしも勝手にさせてもらいます」
吐き捨てるように言った優香は、優香が何のつもりなのか測りかねる2人を置いて歩き出す。
「あぁ、それと。」部屋を出ていこうとして優香はふと振り返り、司令官に向かって言った。
「東南アジア諸国における抗日テロが激しくなっているそうですね」
「……聞いたのか。橘さんに情報がいくのは速いな」
「どういうおつもりですか?他国を占領せずとも、資源は同盟国から得られるはずです」
「私は同盟などというものを信用したことはないよ。戦況がどうなるかは誰にも分からない。同盟国といえど所詮他国だ。 いざという時、優先されるのは自国か他国か―――橘さんは、それが分からないほど馬鹿ではなかっただろう」
「……分かりました。しかし、占領する国は1つに絞ってください。それから、国民の直接的な支配は同じ民にさせることをおすすめします」
「ふむ……つまり、間接的に支配しろと?」
「ええ。日本人に怒りの矛先を向かわせるべきではありません。共通の敵の存在は時に軍事小国を大国にする」
「成る程、考えさせてもらうよ」
優香は司令官の返事を聞いて満足したのか、ふふんと笑って部屋を出ていく。
芳孝は2人の会話に始終違和感を覚えっぱなしだった。
軍の司令と一超能力部隊隊員が、まるで互いに対等であるかのような態度で話し合いをしていたからである。
優香の出ていったドアを黙って見つめていた芳孝に、司令官は苦笑して言った。
「悪いね、変なところを見せてしまって。橘さんは、普段は誰に対しても愛想の良い扱いやすい子なんだけれどね。たまにああして、糸が切れたように怒鳴り出すんだ。戦争が始まってからは特にだよ」
「無理もないですよ。彼女はまだ若いですから」
相手に作り笑いだと思わせない綺麗な作り笑いをしてみせた芳孝は、手短に報告を済ませ司令官室を出た。
「ああっ!紺野さんじゃないですか!こっち来るなら言ってくれたら良かったのに~」
外に通じる廊下で声を掛けられ、芳孝は足を止める。
振り返ると、そこにいたのは数名の若い女性職員だった。
「今日みんなでお菓子作ったんですよ!余り物ですけど、良かったら食べますか!?」
「わたしもわたしも!」
「紺野さん、良かったらわたしのも食べてください!」
芳孝はたちまち女性陣に囲まれてしまう。
芳孝がこうして行く手を阻まれるのは毎度のことだ。
芳孝には元より人を――特に年頃の女性を惹き付けるミステリアスな雰囲気を持っている。
深く関わってしまえば痛い目を見るであろうことも知らずに、その日も女性たちは必死にアピールをしていた。
芳孝は「ありがとう」と微笑み、とても“余り物”とは感じられない、ラッピングされた手作りクッキーを受け取る。
女性たちは受け取ってもらえたことに満足し、「い、いえ!是非また来てくださいね!」と言って頬を染めながらパタパタと走っていく。
芳孝はその様子を目だけで追い、女性たちの姿が見えなくなったところで――――先程貰った物を躊躇いなく近場のゴミ箱に捨てた。
ふと廊下の隅に先程までいなかった何者かの気配を感じ、芳孝はもう一度振り返る。
しかし誰もいない。
否、いないのではなく“見えない”。
芳孝は気付いていないふりをして歩き出す。
しかし次の瞬間、その人物は芳孝のすぐ背後までやってきていた。
「もったいなーい。折角作ってくれたのにいいの?」
「、」
芳孝は驚き、反射的に振り返る。
(瞬間移動?いや違う。音がしなかった。座標から座標へ移動したというよりは、僕との間の距離そのものを変えた?この女、一体いくつ能力を持ってるんだ)
「いらないならあたしがもらっちゃうけど~」
クスクス笑いながら触れずにゴミ箱からクッキーの袋を取り出した優香は、同じく触れずに袋を開け、中からクッキーを取り出した。
「いつもこんな風に捨ててるの?可哀想に、あの子達君に振り向いてもらおうと必死よ?」
「手作りは嫌いなんだ」
「あぁ、そういう人たまにいるわよね。でもちゃんとそれ言ってあげないとまた作ってこられるんじゃない?」
「また持ってこようが捨てればいい話だろう」
「へぇ……?最低の極みね~。あたしと同じタイプ」
芳孝のために作られたクッキーを平気な顔で立ち食いしながら、優香は芳孝を覗き込む。
「ねぇ君、さっきあたしの存在に気付いたでしょ。空間把握だよね。でも君の能力って確かCランクレベルの回春能力じゃなかったっけ?おっかし~な~。Cランクなのに複数能力持ってるんだ~?まるでSランク能力者みたいだな~」
「……」
「睨まないでよ、誰にも言う気ないし。でもうちの班にいる時はちゃんと伝えなさいよね?少なくとも泰久や一也には。チームの能力を正確に把握できてないと困るから」
B、Cランクのうち優秀な能力者の数名は近々戦場においてSランク能力者と組まされる。
芳孝も、もうすぐ優香含むSランク隊員と同じチームとして戦場に立つ隊員の1人であった。
そういう意味で優香は以前から芳孝を注意して見ていたのだが、芳孝はそれを知らない。
「仲良くしましょうよ芳孝くん。あたし達って似た者同士だと思わない?」
「お断りだ。君には興味をそそられないんでね」
芳孝は完璧な人間に興味があるわけではなかった。
欠陥のある、人間の歪みにこそ面白味を感じる。
優香には芳孝の好きな類いの欠陥が無い。
芳孝は冷めた目で優香を一瞥した後、踵を返して歩き始めた。
「ひどーい。自分が興味持てる相手としか関わらないの?それこそつまらない人生じゃない?」
クッキーを食べ終えたらしい優香は袋だけを元のゴミ箱に捨て、芳孝の後を付いていく。
「どこまで付いてくる気かな、君は」
「君の部屋までよ。あの部屋モニターいっぱいあるじゃない?ちょーっとだけ貸してほしいなって思ってるの」
部屋に置いてある物まで把握されていると分かり、そこで初めて芳孝は後ろにいる女に自分のことを調べられていたと知る。
途中から追い払うのも億劫になった芳孝は、結局優香を部屋にあげることとなった。