深を知る雨
「ねぇ、これは単なる興味なんだけど。あたしからもう1つ聞いていい?芳孝くんって子供が好きなの?」
「は?」
「義理の子供、別の家で飼ってるでしょ。あたしてっきり芳孝くんは子供嫌いだと思ってたんだけど」
澤雪乃のことを言っているのだと少し驚いたが、優香が調べれば何でもすぐ分かってしまうことは分かっているので、すぐ納得もした。
澤家は軍に多くの資金援助をしており、上層部と交流のある芳孝は、年に何度か雑用としてお礼の挨拶に行かされることがあった。
雪乃を見たのも、預かってくれないかと頼まれたのもその時である。
「単なる気紛れだ。あの子じゃなかったら預からなかっただろうしな」
「へぇ、じゃあその子供に何か惹かれるところがあったんだ?」
「彼女は見るからに欠陥品だった。だがその欠陥がどこにあるのか分からなかった。だから興味を抱いた」
「欠陥、ねぇ」
「これは僕の生まれつきの才能でね。超能力ではないんだが、見ただけでその人間の持つ欠陥の有無が分かるんだ。歪みと言った方がいいか。僕は好みのタイプの人間を見つけるのが得意なんだよ。君がさっき言ったことを訂正してやる。僕は歪な人間に人並みに執着するさ。事実澤雪乃にも執着している」
「ふーん」と興味なさげに返事した優香は、読んでいた漫画を枕元に置き、芳孝を見上げた。
「じゃあそんな変な力を持ってる芳孝くんに質問。あたしは歪んでるように見える?歪んでないように見える?」
芳孝の方も、煙草を吸いながらちらりと優香を見る。
暫しの沈黙が走ったが、それは芳孝が答えに迷ったからではない。
その質問の答えは、一目見た時から決まっている。
「―――――歪んでいるね、実に。僕がこれまで見てきた中の誰よりも」
それは芳孝が見たことのない種類の歪みだった。
そしてその歪みに対し、優香本人は半ば開き直っているところがあるようにも感じられた。
優香には芳孝の好きな類いの欠陥が無い、とはそういう意味だ。
優香には、自身の欠陥を苦しむことなく受け入れる完璧さがある。
芳孝の答えを聞いてクスクス笑った優香は、満足したように眠りについた。
芳孝が眠るのはいつも優香の後である。
まだあどけなさの残る優香の寝顔を見た後、芳孝は静かに煙草の火を消した。
――――優香が芳孝の部屋に少年を連れてやって来たのは、それから数ヵ月してからのことだった。
ハン・ジュノン。
芳孝がかつてモニター越しに見た、CIGI所属の子供だった。
優香の表情が険しいことからして、ただ事ではないことはすぐに分かった。
優香は壁にある大きなモニターに日本地図を映し出す。
「日本警察から権限を乗っ取ったわ。全国の異常をリアルタイムで地域別に感知することができる。被害件数の上がった地域があればすぐにあたしに連絡して」
突然何だと聞こうとした芳孝よりも先に、
「もうすぐバッドボーイが――最新の核が落とされる」
優香が衝撃の事実を口にする。
さすがの芳孝もこれには驚いて黙り込んだ。
まさか敵国がそんな手荒な真似をすると思わなかったからだ。
核に対抗する技術は開発されているが、用意するのに時間が掛かる。
奇襲であれば日本に大打撃を与えられることは間違いない。
非難されようとも、核さえ落とせばすぐに日本帝国を降伏させられるだろう。
逆に言えば、ドクイツ側がそれほど追い詰められているということだ。
核兵器を使わなくてはならないほど、戦況はこちらに有利な状況にある。今のところは、だが。
「被害件数を確認してどうする?」
「万一のためよ。被害は一切出ないと思うけど、もし出た場合は報告して。すぐに対処する」
意味が分からず優香を凝視する芳孝だが、優香は真顔でぶっ飛んだことを口にする。
「バッドボーイは成層圏に飛ばしてから爆発させるわ」
「……何を言ってる?国家機能が停止するぞ」
高層大気圏で爆発させれば、放射線は宇宙へ飛散する。地上には来ない。
確かにそれが直接的な原因でという死人は出ないだろう。
しかし、直接的な人体への攻撃にならずとも、そんなことをすればEMPによる大規模な電子機器障害が起こる。
軍や企業、行政から発信される電波が一切無くなる。
インフラが破壊される。
全ての近代文明が消えると言っていい。
――――確実に、国が滅ぶ。
「させないわ。誘導電流はあたしがどうにかする」
「……冗談だろう?」
「冗談で済む状況じゃないでしょう」
「できるはずがない」
無謀なことを言うたった1人の女性に対し、何故可能と不可能の境目が分からないのかと、芳孝は怒りを覚えた。
そんなことができるのならば、それはもう“超能力”ではない。
そんな馬鹿げた力を、芳孝は超能力と呼びたくなかった。
そんなものは超能力を更に超越する何かだ。
いくら世界最強の電脳能力者と言っても、日本帝国中の電子機器を破壊する威力を持つほど強烈な、広範囲に及ぶEMPに対処できるはずがない。
それでも笑う。
橘優香は笑う。
芳孝より一回り以上年下の彼女は、絶対的な自信を持って笑ってみせる。
化け物らしく、笑ってみせる。
「あたしを誰だと思ってるの?」
芳孝はその瞬間、生まれて初めて人間を畏れた。
その日日本帝国に起こったことが後世に語り継がれることは無いだろう。
歴史に残るべきこの大事件は、しかしどの国の歴史にも残ることなく消えた。
この日何が起こったか正確に知る者は、ただ3人を除いて存在しない。
橘優香はその身1つでバッドボーイに対峙した。
次の瞬間にはバッドボーイは予定とは違う位置にて爆発していた。
ドクイツ側はこれを単なる失敗と捉えた。
――――バッドボーイによる被害件数は0。
本来ならば日本中に多くの被害を出したであろう兵器は、しかし一切の影響を与えることなく消え去った。
原因は不明。
ドクイツ側ですら何が起こったのか把握できなかった。
ただ、その日のことを後に日本帝国人はこう語る。
“空の色が変わった日”と。
不思議なことに、バッドボーイの死の色は、人々の目にそれぞれ違って見えたと言う。
ある者には赤に。ある者には青に。ある者には緑に。ある者には白に。ある者には紫に。
そして超能力部隊Cランク寮の一室の窓からその様子を眺めていた1人の少年は、その空の色を橙色であったと表現する。
(……すごい)
(これが、世界の頂点に君臨するSランク能力者)
――――まるで橘優香が自分に当たる雨を遮ったあの日の傘のように、美しいオレンジ色であったと。