深を知る雨
誰かの話
《23:00 北京》
大中華帝国軍の、しばらくぶりの将官会議。
彼らは円卓テーブルを囲み話し合う。
そこには珍しく料理が並んでいない。
「日本帝国と大中華帝国の予知が一致したようね」
――――開戦は、6月。
時期が近付いてくるにつれて両国の予知が一致したということは、6月である可能性は90%以上だ。
真剣な表情をしている将官佐官の中で、唯一にやにやしながら鼻唄を歌うのは、1人の少年。
「随分機嫌が良いね、ティエン」
少年の正面に座る日本人の女が、呆れたように言う。
「だってもーすぐ5月じゃん。鈴、5月中にはこっち来てくれるんでしょ?」
その言葉を聞いて、女は僅かに目を伏せた。
「また鈴と一緒に戦場に立てると思うとワクワクするなァ」
「ハイになって昔のように仲間を殺さないかが心配だな」
「タイランってば心配しすぎなんじゃなーい?リーたちは昔とは違うんだよっ?」
「変わらないのはタイランの心配性だけ」
「言えてるな!ポォォォウ!」
場は盛り上がっていた。
これから始まる戦への期待に満ちていた。
ただ1人、女だけが置き去りにされている。
その後は今後の予定だけを軽く話し合い、会議はいつも以上に早く終わった。
将官佐官は次々と部屋を出ていく。
最後まで動かなかったのは、先程の少年と、女のみ。
女は暫く座って天井を眺めていたが、少年がいつまでも同じ場所にいるので、視線を彼に移した。
「戻らないの」
「鈴にしてほしいことがあってさァ」
少年が手を上げると、奥から赤と金で統一された、随分立派な椅子が出てきた。
「……何これ」
「この軍事施設にしかない椅子だよ。歴代の軍の重要人が全員1度は座ったことがあるっていうね」
「何、座ってほしいの」
「そーそ。話が早くて助かるなァ」
女はこのような玉座にも似た椅子を見たことがなく、座ってみたい気持ちもあったので、あっさりとその椅子に腰を下ろした。
少し、高い。
「靴脱いでェ?」
「は?何企んでんの、」
「いーからいーから」
今度は靴を脱ぐよう言ってくる少年に促されるまま、女は疑問に思いながらも裸足になる――が。
次にされたことは、あまりに予想外の事柄だった。
少年の唇が女の足の甲に触れた。
それは少年なりの、忠誠の示し方だった。
「……汚いよ」
「汚いモノなんて戦場で散々見てきたでしょ、お互い。今更人の足を汚いなんて思う心は持ってない。違う?」
女は足を引っ込めようとするが、少年は思いの外強い力で女を掴んでいる。
「許さねェよ」
「何を」
「一瞬でも迷うことは許さねェ」
少年は――珍しく、これまでにない程、“一国の軍の中将らしい”表情をしていた。
「鈴はボクたちを率いなきゃいけない。ボクらはそのために鈴を選んだ。鈴ならボクらの指導者になってくれるって思ったから。鈴にはその力があると思ったから。でも、もし鈴の覚悟が揺らぐような時が来たら、ボクが鈴を殺して、その座を奪う。ねェ、そうならないためにもさァ、全部捨てろよ。ボクとの戦いのために全部捨てて。甘ったれんな。何で最近よく寂しそうな顔するの?年数が鈴を変えたの?なら戻ってよ、昔の鈴に。でないとボク、今すぐ鈴をぶち殺しちゃいそう」
その瞬間、女の目の色が変わった。
迷っているというのも寂しそうだというのも、女にとっては最大の侮辱だった。
女は少年の額を踵で踏みつけ、馬鹿にしたように笑う。
「迷ってるって?誰が?私が?もっぺん言ってみろ」
「っはー、いいねェその目。ボク鈴のその目が大好きだよ。それでこそボクのジョオーサマだね」
少年は女を見上げ、満足げに笑った。
女は少年から足を外し、靴を履いて立ち上がる。
「お前に心配されなくても、全部捨ててここへ来るつもりだよ。私がまだ生きてるのは、今回の戦争のためなんだからね」
少しだけ。ほんの少しだけそれまでの生活への執着心を抱いていたその女は、ここに来て漸く、改めて決意をした。
平気だ。
きっと。
何を捨てようが。
――罪滅ぼしのみが、彼女の生きる理由なのだから。