深を知る雨
第十二章




凡そ15年前。

当時8歳の紺野楓と経済力のないその母親の住む家は、日本のスラムと呼ばれる場所に隣接していた。

元は小さな軍事都市であったのだが、挑発としてミサイルが落とされた後はミサイル跡地として急速にスラム化した場所である。

自然発火したゴミから煙が燻っており景観が悪いうえ、酷い日には吐き気を催す臭いが漂う。


そんな紺野楓の家に新しい父親と名乗る男が出入りするようになったのは、楓が8歳の頃だった。

楓の新しい父親は――いや、正式な父親ではないのだから父親と呼ぶのも少し違っているが――暴力的な男だった。

男は楓の前で幾度も楓の母親を殴った。

楓は母親を守りたいと思っていたが、体格差があるうえに男はBランクレベルの発火能力者で、Eランクの楓にはどうすることもできなかった。

楓は学校の教師に助けを求めたが、彼らの多くは彼女の言うことに耳を貸さなかった。子供の言うことだと相手にしない人間と、もしかしたら事実かもしれないと思いながらも面倒ごとに巻き込まれるのを避ける人間。楓の学校の教師は、そんな2タイプに別れていた。

唯一心配して家に電話をしてくれた教師がいたが、そんな事実はないと楓の母親自身に否定されたことで楓を信用しなくなった。


男は機嫌の良い時には楓にも楓の母親にも優しくした。

その時ばかりは楓も男こそが自分の新しい父親であるのだと自分を納得させようとした。

しかし男は一度機嫌が悪くなると怒鳴り散らし、楓の母親を殴る。その頻度は徐々に高くなっていく。

幼い楓にとってはそれが恐ろしく、怒鳴り声が止むまで自分の部屋に閉じ籠り、母親の悲鳴が聞こえないようずっと耳を塞いでいたのだった。


楓の母親は夜遅くまで働いていることが多々あった。

楓は時折家に来る、自分の新しい父親となるであろう男と2人きりになるのが嫌で、学校から帰ってくるとすぐに外へ出ていた。


そこからは、ゴミの山と多くのバラックが並んでいるのが見える。

楓の通学路には沢山のビルや公園があり、お洒落をした人々が歩き回っているというのに、家の近くに広がるのはそれとは全く違った光景なのだ。

楓の目には、その場所だけが日本帝国ではないように見えた。

日本帝国から切り離された、何か別の世界。

教育と医療と食料が十分に供給されていない世界。

楓はしばしば長くその光景を眺めていた。


そして出会ったのである。


「―――ッ、」


その後長く付き合うことになるその少年に。


少年は辛うじて服と呼べる程度の汚れた布を身に纏い、楓にぶつかってきた。

そのため楓は尻餅をついたのだが、少年は楓に目もくれず走っていく。


「……ちょっと!謝罪くらいしなさいよ!」


楓は少年に向かって叫んだが、聞こえているのかいないのか、少年は振り返らない。


(ったく……服汚れちゃったじゃない。お母さんに怒られる……って、ん?)


汚れた上着を脱いだ楓は、それがやけに軽いことに気付く。

ポケットの中身を確認してみると――端末が無くなっていた。


掏られたのだ。


楓はすぐに先程の少年の走っていった方向を見た。

既にかなり遠くまで行ってしまっている。



だがしかし。

楓は小学校で1番足の速い子供だった。

運動会のリレーではアンカーとして皆の注目の的となっていた。

働いてばかりの楓の母親は楓のそんな活躍など知らないが、それでも楓は毎年紺野楓として――大好きな母の娘として、運動会で活躍してやろうと張り切っていた。


少年は走りながらふと振り返った――そこには女子小学生とは思えない形相でチーターの如く走ってくる楓がいた。


「……っ!?」


少年は心底驚き、走るスピードを上げようとしたが、ちょうどその時足元のゴミ山に躓いて倒れる。

それに覆い被さるようにして、楓は少年の上に乗った。


「返してもらうわよ、この盗人!」


少年の腕を捻りあげた楓は、その手から自分の端末を取り上げる。

ふふんと得意気に笑った楓は、不意にその場の雰囲気の悪さに気付いた。

遠くから見ることはあっても、スラム街の内部に入ったのは始めてだったのだ。

母から絶対に入るなと言われていることを思い出し、急に不安になった楓は周囲を確認する。


(どうしよう、早く戻らないと……)


楓が少年の上から退こうとした、その時。


「薫が女の子に襲われてる……」


隣にあったバラックから男の子が現れた。

年齢はおそらく楓より5つほど上だろう。

薫と呼ばれた少年と同じく汚れているが、楓にはその男の子が、スラムにいる他の人間たちとは違って見えた。

遠くから見ていた他の人々より随分とおっとりしているような印象を受けた。


「破廉恥……」


無表情でぼそっと呟いたその男の子に、薫が怒鳴る。


「ちっげぇよ!!」


――楓の体がびくりと震えた。

その拍子に楓の手の中にあった端末が地面に落ちる。

楓は男の怒鳴り声が苦手だった。

まだ声変わりもしていない少年の声とはいえ、怒鳴るとそれなりに迫力があり、新しい父親になるであろうあの男を思い出したのだ。

しかし薫はそんな楓の様子など気にもせず、地面に落ちた端末に手を伸ばそうとする。

楓はハッとしてその手を叩いた。


「何また取ろうとしてんのよ!大体、端末奪ってどうする気?持ち主以外使えやしないのに」
「使えなくたって本体そのものが売れんだよ。レアメタルだぞ、レアメタル」


薫は不満げにそう言ったが、これは無理そうだと漸く諦めたのか手を引っ込める。

バラックから出てきた男の子は、楓の服装を見て不思議そうに首を傾げた。


「きみ、この辺の子じゃないね……。どうしてこんな所に来たの……?」
「どうしてって、こいつがあたしの端末盗んだからよ!」
「薫……め、だよ。こんな小さな子から盗っちゃだめ」
「…ったく、兄貴は甘すぎんだよ」


薫が“兄貴”と呼んだことで、楓は2人が兄弟であることを知る。似ていないが、そうらしい。

ぐぎゅるるるるるるぐおおおおおおおおおお。

そこで楓のお腹が鳴った。

兄弟の間に沈黙が走ったので楓は恥ずかしくなり、薫の上から退いて早足で帰ろうとする。

しかし、襟を掴んで止められた。


「1人で帰っちゃだめだよ……。この時間帯は危ない奴等が通るかもしれないし……お腹空いてるなら、うちのバラックで何かあげる」
「おい……兄貴」
「いいじゃん、ちょっとくらい……。お詫びだよ」
「苦労して奪った飯だろうが」
「無くなったらまた盗めばいいよ」
「兄貴はいつもそういう後先考えねぇ行動ばっかすっから損すんだよ」


軽い口論をし始める兄弟を、楓はじいっと見つめた。

その視線に気付いた兄の方が、ふにゃりと笑って自己紹介する。つくづくスラム街の似合わない男だ。


「ぼくは佳祐。きみの名前は……?」
「……楓」
「楓ちゃんは何が好き……?辛いもの、甘いもの……?」


楓は辛いものの方が好きだったのだが、端末を盗まれかけたとはいえ自分より貧しい子供たちから自分の好きなものを貰うのは気が引けて、小さく「甘いもの」と答え、促されるままバラックの中に入る。

バラックの中には四角い固まりがいくつも並んでいた。


「……これ、何なの?」
「氷。水を状態変化させて保管してんだ」


楓の質問に、薫が素っ気なく答える。

冷蔵庫もないのに固まっている水を、楓はまじまじと見た。

この2人のどちらか、兄弟なのだからあるいは両方が、状態変化能力者ということだ。

それもこんなに多くを一気に固めて置いておけるってことは……少なくともC、Dランクはある。


(あたしもCランクレベルの能力があったら)


母親が暴力を振るわれていても何もできない自分を思い出し、楓は2人を羨ましく思った。




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