深を知る雨
「はい……」
不意に佳祐が入れ物を差し出してくる。
その中には水が入っていた。
てっきり食べ物が出てくると思っていた楓は、戸惑いながらもその飲み物を口に含む。
(……砂糖水だ)
「ごめんね……よく考えたら、お腹壊さない保証のあるものが何もなくて」
申し訳なさそうに笑う佳祐を見て、この人はきっと良い人なのだろうと楓は思った。
楓が砂糖水を飲み干すと、すぐさま隣の薫が言った。
「送ってやるからさっさと帰れ。ここはお前みたいな子供が来ていい所じゃない」
「何よ、あんただって子供じゃない」
「“お前みたいな”って言ってるだろ。そんだけいい服着れるだけの生活送ってるいいとこの嬢ちゃんが来るべき場所じゃねぇっつってんだよ。面倒な連中に目ぇ付けられたら終わりだぞ」
“いいとこの嬢ちゃん”と呼ばれたことに楓は違和感を覚えた。
何故なら楓は学校の子たちと比べれば裕福な方ではなく、寧ろ貧しい部類に入ると自覚していたからだ。
「薫が送ってくれるなら安心だね……危ない奴等に会わないように、裏道通りなよ?」
「へいへい。分かってるっての」
薫は楓の手を引いて、来た道とは違う方向へと歩いていく。
途中で、少年たちが女の格好をして大勢並んでいるのが見えた。
どの少年も、美しいタトゥーを入れている。真っ赤な口紅が妙に楓の視界を彩った。
「薫、あれは何?」
「男に体売る仕事だ」
「えっ……?」
「何驚いてんだよ。今時珍しくねぇだろ」
「で、でもあの子達まだ子供じゃない。それに、男の子でしょう?」
「子供も大人も関係ねぇよ、この場所じゃ。それに、男に体売るのが必ずしも女だとは限らねぇだろ。寧ろ男の方が高値で売れる。兄貴もやったことあんぞ」
「……佳祐は、男の人がイケる人なの?」
「いんや?別に、積極的に男としたいってタイプでもねぇだろ」
「……なのにするの」
「金になるからな」
“金になる”――楓にとってはその言葉が、酷く残酷なものに聞こえた。
そんな話をしている内に、楓が元いた場所に辿り着いた。
「1つ忠告しといてやる。こんな場所に1人で立つなんざ格好の餌食だ。俺じゃなくても襲ってる。あと、掏られても追い掛けんな。奥に行くほど治安が悪い。もう2度と来んなよ」
2つじゃん……と思いながら、楓は去っていく薫の背中に声をかけた。
きっともう2度と会うことはないと思ったから、聞いた。
「あんたは、ずっとあそこにいるつもりなの?」
自分と同じくらいの年齢の少年があんな世界に居続けるという実感が、楓には湧かなかった。
「俺の居場所は、兄貴の傍だけだからな」
ただ、薫という少年が、兄のことをとても大切に思っていることだけが分かった。
それから数ヵ月が経ち、楓は2人の顔をよく思い出せなくなった。
しかしそこで見た光景だけは強く胸に残っており、立ち並ぶバラックの方を見るといつもあの場所に並んでいた、体を売る少年たちのタトゥーを思い出すのだった。
その日も楓は家に入る前にバラックの方向を一瞥してから中に入った。
すると。
「――――ふざけてんじゃねぇぞクソアマ!」
大きな怒鳴り声と悲鳴、人を殴る音が聞こえた。
楓はおそるおそるリビングを覗く。
そして、その時ばかりは恐怖を忘れて駆け寄った。
酷い暴力を振るわれ続けた結果として、母親が今にも死にそうに見えたからである。
「やめて!!お母さん死んじゃう!!」
楓は男の手を引っ張って止めようとしたが、振り払われた挙げ句強い力で突き飛ばされてしまう。
「あぁ?俺がそんなヘマするってか?クソガキ。安心しろよ、ちゃあんと加減してるからよォ」
「や、やめ……やめて……よく見てよ、お母さん、死、死にそ、ッ!!」
顔面を蹴飛ばされ、楓は痛みに悶えた。
母親がこんな痛みに今まで耐えていたことに驚いた。
暴力を振るわれたのは初めてのことで、呆然と動けずにいる楓を、男は引き摺って外に出す。
「親に口答えする悪い子は、家に帰ってきちゃいけませぇん」
ばたん、と大きな音を立てて重いドアが閉まる。
中で母親が何をされているか分からない状態になった楓は絶望的な気持ちになり、必死に何度もドアを叩いた。
しかし自分の手に痛みが走るだけで、ドアは一向に開かない。
「や、やだ……お母さん、お母さん……」
力なく呼んだが、当然返事はない。
(――どうすれば)
楓はドアの前にへなへなと座り込み、考えた。
(どうすればいい?)
学校の先生は助けてくれない。
いや、他人は助けてくれない。
子供の言うことを信じてくれない。
なら誰に頼ればいい?
そこまで考えたところで、楓の頭にある1人の男性の顔が浮かんだ。
――――実の父親、紺野芳孝の顔である。
別居しているとはいえ、楓とその母親は定期的に芳孝に会っていた。
事務的に会って食事をし、事務的に金のやり取りをするだけの関係ではあるが、それでも芳孝は楓の父親なのだ。助けてくれるに違いない。
芳孝のいるであろう軍事施設の受け付けに走った楓は、芳孝に会わせてくれと泣きながら頼んだ。
受け付けの女性は戸惑ったが、子供の様子を見てとにかくただ事ではないことだけは分かり、芳孝を呼ぶよう指示した。
それから芳孝が来るまでに数十分がかかった。
その間、楓はそわそわと同じ場所を歩き回った。
漸く芳孝がやって来た時、楓は必死にすがり付いた。
「助けてください……!!」
芳孝は軍服姿のままだった。
楓は彼のその格好を初めて目にした。
私服の時ですら父親という感じ――家庭の匂いがしないのに、軍服姿ではより他人に見えた。
「お母さんが死にそうなんです!!」
父親と娘とはいえ、楓はいつも芳孝相手の時は敬語になってしまう癖があった。
芳孝独特の雰囲気と、心理的距離がそうさせる。
「お、お父さ……新しいお父さんに、殴られて、いつも殴られてて、死、死にそうで、」
「……」
「あ、あたしじゃ、お母さんを守れない、」
Eランクの自分では相手にならなくても、Sランクの芳孝ならあの男を倒せるはず――そう思って懇願した楓に対し、芳孝は淡々と言った。
「何かと思ったら、そんなことか」
“そんなこと”――その言葉が楓をどれ程傷付けたか、芳孝は知らない。
「い、今も!今も男に殴られて、死にそうなんです!!」
楓は自分の言っていることが伝わっていないのかと思い、もう一度叫んだ。
しかし。
「君は無知だね」
2人の間には絶対的な温度差があった。
「助けてほしい時に必ずしも救いの手を差し出してくれる人間がいるとは限らない」
ずるり。楓の手が、虚しく芳孝の服から離れる。
「本当に愚かな子だ。あの女に似ている」
優しい罵倒が、楓の鼓膜を震わせる。
「僕に助けを求めに来るなんて時間の無駄だ。あの女は今にも死にそうなんだろう?なら力のある誰かを脅すか金を用意するかして助けてもらえばいい。その方がずっと助けてもらえる確率は高い。勿論、成功するかどうかは分からないがね」
「……は、」
「あぁ、悪いが僕は金では動かないから、僕につまらないことで助けを求めるなら報酬は金以外の、もっと面白いものをお願いするよ」
「な、にを、言って……」
「ところでそろそろ行っていいかな?君は何も持っていないようだし、僕は夕方から沖縄へ行く予定なんだ。準備をしなくちゃ」
「――――…、」
そこで楓は、どうしようもなく実感する。
(そうか、この人は)
(あたしに何も与えてくれはしないのだ)
芳孝は絶望した様子の楓を置いて、まるで何事も無かったかのように、鼻唄を歌いながら去っていった。
受け付けにいた女性はおろおろと芳孝と楓を交互に見るが、楓は何も言わずふらふらと出ていく。
楓は知った。
救いの手など期待してはいけないことを。
ならどうすればいいか。
その答えは既に、楓の中にあった。
昼寝をしていた薫はバケツの倒れる音で目を覚まし、倒した人間を見てチッと舌打ちした。
「何蹴飛ばしてんだよ。折角雨水溜めてたってのに。つーか、もう来んなって言っただろ」
そこにいたのは、一旦男のいなくなった家に帰り、倒れている母と散らかった部屋を見た後の楓だった。
「……ひでぇ顔」
薫の言う通り、楓の目には泣き腫らした跡があった。
「あたし、他の子が羨ましい」
楓がぽつりと言う。
俯いているために、表情はよく見えない。
「血が繋がっているだけで愛してもらえる。家族ってだけで大切にしてもらえる。それを当たり前だって思ってる。この世界って、不平等よね」
「そりゃ大層な悩みだな」薫は嘲笑った。
慰めてほしいのかと思ったからだ。
薫という少年は、人間の甘えが嫌いだった。
しかし、次に来た言葉は予想外のものだった。
「お願い。あたしと戦って」
「……はぁ?」
「鍛えなきゃいけないの!あたしの能力を!」
あの男に勝てるように。
母親を、守るために。
「――――あたしはもう誰かに助けを求めたりしない」
楓の周りに風が起こる。
ゆらゆら、ゆらゆらと、楓の髪が、服が、揺れる。
悲観的にならず、現実をそのまま受け入れようとする少女に、――薫はその時初めて惹かれたのだった。