深を知る雨
《4:40 軍事施設内》
やたら早くに目が覚めたためAランク寮にでも行こうかと歩いていると、木の下のベンチに雪乃が座っているのが見えた。
はー、遠くから見ても和美人だわ。ふつくしい。
そういや、前もあそこに座ってたよな。
確かあの時は、Sランク寮に居づらいからって早めに出てあそこにいたんだっけ。
あれ?でも今は一也の性欲処理してないし、小雪の部屋に泊まってるはずじゃ……どうしたんだろう?
「おっはー雪乃。何かあったのか?」
気になって声を掛けると、ぼーっとしていたらしい雪乃の体がビクリと震えた。
一瞬脅えるような瞳がこちらに向けられたが、相手が私だと分かったからか、すぐふわりと柔らかい笑顔を見せてきた。きゅん。
「おはようございます、哀様。もう朝だったんですね……」
…………“もう朝だったんですね”?
おいおい、待てよ。嫌な予感がするぞ?
「……雪乃、いつからここにいたんだ?」
「昨日からです。少しぼーっとしていて……」
またか。
「こんなところで!凍え死んだらどうするんだ!ここが砂漠だったら死んでたぞ!!」
「す、すみません……」
一晩こんな場所にいたらしい雪乃を温めようと思って上着を脱いでいると、ふと雪乃の目の周りが赤くなっていることに気付く。
「……雪乃」
「はい」
「……泣いた?」
「……」
その沈黙が肯定を意味していることくらい、すぐに分かった。
「どした?何かあったのか?オレが聞いてもいいこと?」
雪乃の隣に座って、雪乃の顔を覗き込む。
一体誰だ私の雪乃を泣かせた子は。末代まで呪ってやる。
「…………大したことじゃないんです」
「いいよ、大したことじゃなくても。言える話なら言ってくれ。できることがあるかもしれない」
「……本当に、大したことじゃないんです、私にとっては。……でも、兄様にとっては違ったみたい……」
やっぱり小雪関係か、と思いながら自分の上着を雪乃にかけ、続きを待つ。
「超能力部隊には、盗聴を得意とする能力者がいるそうなんです。私と兄様の部屋の中での会話も聞かれたみたいで、それ以来、それをネタに絡まれることが多くなって……」
……里緒を襲った奴等といい……超能力部隊って案外変態が多いの?後でシメル。それストーカーだし。
「絡んでくる奴らに嫌なことされたってことか……」
「いえ、僭越ながらその方々は蹴りで倒させていただきました……」
「倒……お、おお……そうか……」
そういえば見かけによらず少林寺拳法を習ってたんだった、この子……。
「……悔しいんです。兄様が私を遠ざけようとしているから。それが私を守るためだって分かるから、余計に腹立たしいんです。きっとあの人は、何もかも自分のせいだって思ってるんです。私だってそれなりの覚悟を持って兄様といるのに、あの人は自分だけで全部背負って私から離れようとする、……」
そこで言葉を区切った雪乃は、涙声で付け足した。
「…………っ、悔しい……!」
その“悔しい”には色んな気持ちが含まれている気がした。
堂々と恋仲であることを表に出せないことも、バレたらこんな風に離れなければならなくなってしまうことも、全部悔しいんだ。
……ただ、人を好きになっただけなのにな。
「――証拠は、ないんだよな?」
私は立ち上がって、雪乃の正面に回った。
「え……?」
「その能力者って、盗聴はできても記録は残せないだろ?記録が出回ってないってことは」
「おそらく……」
「証拠はない。ならただの噂止まりだ。否定し続ければそのうち誰も言わなくなる」
私は雪乃の頭を撫でた。
よく手入れされているであろう、とてもサラサラした髪の毛だった。
「大丈夫だ。もうすぐ大事件が起こるから。雪乃たちのことは、皆の頭から吹っ飛ぶよ」
「……え……?」
不思議そうに見上げてくる雪乃の頭から、手を離す。
「もうすぐだから。それまで笑っててくれ」
最後に2人の恋を守ることができるなら、私はもうそれでいい。
最後に、“私”の誕生日を祝ってくれたこの2人の力になれたらなら、それ以上のことはない。
雪乃たちの噂は、もっと強烈な出来事で掻き消す。
――――……派手に、暴れてやるよ。
《19:00 Sランク寮》泰久side
居間に灯りがついたため、読んでいた古い紙の本から、ふと顔を上げた。
今夜は風が強いらしく、寮の中にいても風の音が聞こえる。
厚い窓ガラスの向こうに見える外は薄暗い。
俺は栞を挟んで本を閉じ、立ち上がって紅茶を入れた。
そろそろあいつが来るだろうから、2つ分のティーカップを用意した。
ここにある3つのティーカップは色違いだ。
俺と一也、そして哀花。
優香の物はいつの間にか何処かへ行ってしまった。
優香の死に酷くショックを受けていたあの両親が、あれを見ては思い出すからと処分したのかもしれない。
哀花のカップに湯を入れていた時、予想通りの時間に来た哀花が、ドタドタと足音をさせながら勢いよく居間に入ってきた。
いつものことながら騒がしい奴だ。
「こっんばっんはー!……あり?一也いないの?」
「今日は出掛けている」
「あぁ、だから今日合同訓練無かったんだ。中国からは手を引くって言ってたし……操ってた人の催眠解きに行ってるのかもね」
俺はある種の不満を覚え、自分のカップにも湯を入れながら、哀花に背を向けたまま問う。
「最近、やけに一也を気にするんだな」
椅子に座った哀花の前にカップを置き、俺もその正面に座った。
「そりゃ気になるよ、何年も一緒にいたのに一也のこと全然気付いてあげられてなかったんだもん。そういうのもう嫌じゃん?……それに最近一也、笑顔が多くなったと思わない?」
「……まぁ、そうだな。よく笑う」
「そういう変化を見るのも楽しいんだよね!前よりは明るくなってる。この調子でちょっとずつ自分のこと好きになっていくといいんだけど……」
にこにこ笑いながら「あ、ありがとうね」と今更紅茶を入れたことへのお礼を言ってくる哀花。
その楽しそうな様子を見てやはり不満に思い、少しばかりの意地悪を言いたくなってしまった。
「俺はもういらないな」
ぽつりと放った言葉に対し、正面の哀花がきょとんとしたので付け加える。
「“欲求不満”の解消は一也にしてもらえるんだろう?なら俺はいらない」
「……えっ何その嫌な言い方!」
「事実を言っているだけだ」
「えっえっそんなことないよ?私が恋愛対象として好きなのは泰久だし、1番効率的……って言うと変だけど、効率的に欲求不満を解消してもらうことができるのは泰久だし。……でもそういうのやっぱり駄目だと思うから泰久に頼るのはやめただけで、」
「変なところで禁欲的なんだな」
「……な、何か今日の泰久嫌みったらしい!言いたいことがあるならはっきり言ってよね。一也の本音に気付いてあげられなかったこと後悔してるとこだし、泰久の本音だって私は隠してほしくない」
「……それをお前が言うのか?」
それだけは聞き捨てならない。
こいつ自覚がないのか。
「お前こそ本音を隠すようになっただろう。戦争が終わってからずっとだ。お前はお前じゃなくなった」
哀花はカップを置く手を途中で止めて、探るように俺を凝視した。
どうやら気付かれているとは思っていなかったらしいが、戦後に哀花の様子が変わったのは誰の目から見ても明らかであっただろう。
哀花は哀花自身が思っているよりも、きっとずっと分かりやすい。
「本音を隠してほしくないのは俺も同じだ。一也だってそうだろう。俺からすれば、お前が1番俺たちに何か隠しているように見える」
ズルリ――俺の言葉を聞いた哀花から、笑顔が抜け落ちた。
それはほんの一瞬のことで、ずっと面を被っていた人間が面を外しただけかのようだった。