深を知る雨


居間は静まり返り、風の音だけが聞こえる。

長い長い沈黙の後、先に口を開いたのは哀花だった。


「じゃあ今夜だけ本音を言おうか?“最後”に、ね」


どうやら今夜だけは、少しの本音を吐く気になったらしい。

その瞳に吸い込まれそうになりながら次の言葉を待つ。


「泰久。私、泰久のことが好きだよ」


危うく紅茶を噴き出すところだった。

急に言い出すのはやめてくれないだろうか、と動揺を誤魔化すようにして咳払いした俺に対し、哀花が可笑しそうに笑って付け足す。


「でもお姉ちゃんのことも好きだったんだ。より正確に言えば、好きだと思う反面嫌いだとも思ってたんだけど。……でも、好きだったんだ。気が狂いそうなくらい嫉妬してたし憧れてた。あの人の良さを世界で1番分かってるのは私だと思う。ずっとお姉ちゃんだけを目標にして、目の敵にして育ってきたから」


哀花が優香のことをこんな風に語るのは、8年前の戦争が終わってからのことを考えると、恐らく始めてのことだった。


「私ね、お姉ちゃんにも嫉妬するけど、ほんとは泰久にも嫉妬してた。お姉ちゃんはいつも遠い。でも泰久とお姉ちゃんは近くて。泰久とお姉ちゃんは仲が良くて。……3人でいても、いつも私は1人だったんだよ。――私は多分、ずっと2人の隣に立ちたかったんだと思う。でも私と泰久たちとの間には明確な壁があった。住んでる場所が違うんだって、嫌と言うほど思い知らされた。毎日ね」
「――それは違う」


思わず遮るようにして否定してしまった。


「俺だってあいつの隣に立てたことなんてない。あいつは孤独だった。誰もあいつの隣には立てない」


優香の天才であるが故の孤独を、俺はよく知っている。


「もしお前が俺たちの間に何か特別な絆を感じていたんだとすれば――それは俺たちが、秘密の共有者だからだ。ただそれだけだ」


哀花は黙って俺の話を聞いていたが、俄に弾けるようにして笑い出した。切ない笑い方だった。


「はは、ははは。そっかそっか、秘密の共有かぁ……。あはは。悔しいな。やっぱり私は入っていけないよ。お姉ちゃんが私に秘密を教えてくれることなんて無かったもん」
「……ッ哀花、それは、」


堪らずもう一度否定しようとした――が、その言葉は最後まで言えなかった。

立ち上がってこちらに身を乗り出した哀花が、俺にキスをしてきたからだ。

数秒して離れた唇が弧を描く。


「隙だらけだね、泰久は。そんなんじゃ悪い女に襲われちゃうよ。……私みたいなね」


クスクス悪戯っ子のように笑った哀花は、踵を返して居間を出ていく。


ふざけるなと思った。

大の男を舐めるなと。

いつまでもやられっぱなしでいると思うなよと。

その場で掻き抱いて、ずっと離さないでいてやろうかと思った。

今すぐ哀花の細い腕を掴んで引き留めてやろうかと思った。


――――……だが、それはできなかった。


そんなことをしてはいけないという思いの方が強かった。


「バイバイ、泰久」

   ――――「あの子だけは、頼んだわよ」


居間を出ていく哀花の表情が、ほんの一瞬――死ぬ前の優香の顔と重なって、消えた。




 《19:30 軍事施設内》


夜空には満天の星。

最初で最後の恋を終わらせた夜にしては、随分と綺麗な空だ。


「……あーあ。好きだったなぁ」


泰久を好きって気持ちは今日で捨てる。

何れにせよ明日には全部手放さなくてはならないから。

上手にお別れができるように、今日のうちに片付けておく。

目を瞑って、大きく息を吸い、ゆっくり吐き出した。


「好きだったなぁ……」
「何がやねん」
「うわっ!」


唐突に後ろから声がして、振り返ると――銭湯帰りらしい遊が立ってた。

その姿を見て思わず「ヒッ」なんて短い悲鳴を上げてしまったが、遊は気にする様子もなく一歩私に近付いてくる。


「こ、こここここんばんは」
「こんばんは。」
「いい夜だね!」
「せやな」


どうしよう緊張する一旦逃げたいんだけどあからさまに逃げたらバレるよなでもここは1度心の準備をしてからもう1度……と内心唸っていると、遊が口角を上げて覗き込んできた。


「避けるんはもうやめたん?」


……避けてたのバレてるうううううう。

何も答えられずただただ苦笑いする私を見る遊の目が凄く楽しそうで、口許がひきつった。


「久しぶりに2人で話しよーや、哀ちゃん。俺寂しかったわー」


寂しがってたわりにはめっちゃ笑顔ですね……と思いながら、渋々遊の隣を歩く。

にしてもこの人ほんとに私のこと好きなのか?


中学の頃田中くんが私の友達のルミちゃんに恋をした時に2人を観察したけど、田中くんは緊張のあまりルミちゃんの目を見て喋れてなかった。

本当に好きならもっとこう、あんな風に、話しかけてくるにしてもある程度緊張しながら来るもんじゃないの?駄目だまともな恋愛経験が無いから分からない。

穴モテならしたことあるんだけど……どっちかって言うと遊のアプローチの仕方って田中くんじゃなくて歴代のセフレに似てるんだよなぁ。

……あっそういうこと?私じゃなくて体が好きってこと?体目当て?そういえば抱きたいって言われたこともあるし……そういうことかそういうことにしよう。


無理矢理自己完結した時、隣の遊がぽつりと言った。


「裁判が終わった後、佳祐から遺書が送られてきとった。俺宛やった」


遊は真面目な顔をしている。

……おい、私。遊は今薫のことで悩んでるのに何考えてるんだ。

遊が私のことをどう思ってるかなんて今は置いておくべきだ。


「…薫には無かったの?」
「そ。わざわざ俺だけや。楓宛のんも無かった」


遊は立ち止まり、何かを探すように空を見上げる。


「あいつらのこと、頼むって書いてあった」
「……」
「俺何しょんねやろなぁ。今まで薫の何見てきたんやろ。復讐のためにスパイになったって言われて、俺は何も言えらんかった。止められへんかった」
「……どんなに悔やんだって過ぎたことは変えられないよ。これから作っていく未来を見なきゃ。薫のためにも、今近くにいる楓を見ていてやりなよ」


薫を復讐のために生きさせ続けることになってしまったのだから、遊が落ち込むのも当然だ。

せめて前向きにさせようと、今私に言える精一杯の言葉を伝えたのだが、遊はあろうことかククッと笑う。


「良い子やなー、哀ちゃんは。腹立ってきた」
「ええ!?」
「良い子ちゃんすぎて、見てると俺とはちゃうなって思うもん」
「……私は悪人だよ」


お前は知らないだけだと反発心のようなものが生まれ、思わず本音で返してしまった。

しかし。


「何言うとるねん、人間はみんな悪いぞ?」
「……そういうことじゃなくてさ」
「ま、悪くたってええやろ。お前はお前らしく生きたらええよ」


遊は笑いながら悪人を肯定する。


「お前が自分のことどう思とるかは知らんけど、俺はそのまんまのお前が好きやで」


くしゃりと優しく髪を撫でられた時、遊の言葉が、すとんと胸に落ちていった。

遊にとっては何気ない言葉。

でも私にとってはとても意味のある、重い言葉。

橘優香の妹である“橘哀花”ではなく、“千端哀”に向けられた素直な言葉が、じわりじわりと胸に浸透していく。


あぁそうか。

お姉ちゃんより優秀じゃなくても、

お姉ちゃんみたいな天才じゃなくても、

ちゃんと“私”を見てくれる人はいるんだ。


「……あ」


うまく息ができない。

目頭が熱くなって、ぶわりと涙が溢れた。


「ぅっ、ひっ、う、ぅぅっ……」


――――どうして。

どうして、今更。

そんな当たり前のことを、どうして、私は。


「……おい、どないしてん」
「ッひ、ぅっ……」


――――……気付くのが、遅すぎた。


もしももっと早く気付けていたら。

あの時それに気付けていたら。

未来は、今いるこの世界は、大きく違っていただろう。


私はずっと、ありのままの自分を受け入れてくれる人を、無条件の愛情を求めていたのだ。



ぼろぼろと頬を伝う涙を懸命に拭いながら、正面を向いて笑ってみせる。


「ありがとう、遊」


嗚呼、なんて愚かなんだろうか。


「そんなこと言ってくれる人に、出会えて良かった」


私はあれから8年も生き長らえて、最後に漸く、とても大切なことを知ったのだ。


目をごしごし擦って寮へ戻ろうとする私に遊が手を伸ばしてきた――が、私はそれから逃れた。


「ふふん、慰めはいらないよん」
「……目の前で泣いとる女ほっとけってか?」
「もう泣き止んだし。ごめんね、情緒不安定な女で」


ひらひらと手を振り、ゆっくりと離れていく。


「バイバイ、遊」


千端哀を、好きになってくれてありがとう。




その夜ティエンに電話を掛けた。

それは別れの時を早めるための電話だった。


『もしもォし?どしたの、鈴』
「予定日を早めたいんだ。できる?」
『へェ……やる気になったんだ?いいよ、いつ?』
「明日」
『明日ねェ、おっけ』


後ろにタイランがいるらしく、『はぁ!?急すぎるぞ』という声が電話の向こうから聞こえてきた。

相変わらず、予定の急な変更が嫌いな男だ。

融通きかない男はモテないぞとからかいたかったが、電話の相手はティエンなので飲み込んでおく。

私が予定より早く大中華帝国に行くことが嬉しいらしいティエンは、声を弾ませながら聞いてきた。


『どうしたの?急に。何かあった?』
「まぁ、色々ね。……それに」


もう一度空を見上げる。

さっきとは違い、この日に相応しい、美しい空だと思った。



「もう、十分楽しんだから」



橘哀花を捨てた生活とは、明日でさよならだ。




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