深を知る雨
優香と哀花は、部屋の奥にある二段ベッドで、いつも同じ時刻に眠っていた。
何やら毎日忙しそうにしている優香と哀花が揃うのは、夜のこの時間のみであることが多かった。
「哀花さぁ、覚えてる?隣の家が火事になった時のこと。哀花はまだ4、5歳くらいだったわよね」
眠ろうとしていた哀花は、やにわに優香に話し掛けられ、薄く目を開けた。
「隣の家の息子さんが家の中に取り残されて、その母親が泣きわめいてた。消防ロボットが出遅れて、なかなか火は消えなくて。親御さんがあまりに泣いてるもんだから、あたしは1人で助けに行こうとした。母さんも父さんも、誰も止めなかったわ。だってあたしだものね」
優香はこの話をするのが好きだった。
哀花がもう聞き飽きたと言いたくなる程、毎度この話をした。
「でも、哀花だけがあたしのこと心配だって言ったのよ。“お姉ちゃん待って”つってねぇ?あたしの服全然離さないんだもん。ぎゃははははははははは!」
何がそこまで可笑しいのか知らないが、優香が腹を抱えて笑うのも毎度のことである。しかも、決まってこのタイミングでである。
「離そうとしても離れねーのよ!?幼女にあるまじき馬鹿力であたしのこと掴むのよ!?ぎゃははははははははは!ヒーッ!」
「お姉ちゃん、それ前にも聞いたよ……」
「いやでも馬鹿力の話はしてなかったでしょ!?ほんともうびっくりした!どっから力出てんのって話よ!ぎゃはは!ぎゃはははははははは!」
優香の笑いのツボは可笑しいと思いながらも、哀花は実際のところ、姉とのこの時間が嫌いではなかった。
唯一素の姉を見ることができていると思えるこの時間が、寧ろ好きだった。
この頃自覚はなかったにせよ、哀花は優香の才能が確かに嫌いだった。
だが橘優香という人間そのもののことは心から愛していたのである。
だからひねくれることができなかった。
優香に対する憧れを捨てきれず、“自分と姉は違うのだから”と割り切ることもできず、ただひたすらに優香の有り余る程の才能と、優香に追い付けない自分とを恨むことになった。
――――哀花が中学受験に失敗した時、哀花の母親は哀花を家から追い出した。
「帰ってくるな」と怒鳴り、「出来損ないのクズ!」と毎度お決まりの台詞を吐いて戸を閉めた。
哀花は泰久の家に行き、暫く居させてもらうことにした。
哀花の母親が厳しい人間であることは泰久の家族も知っているため、突然の訪問にも寛容だった。
泰久は哀花が滑り止めの中学に合格したことを聞き付け、縁側で1人体育座りをしている哀花に話し掛けた。
「秋から中学入学か。お前も制服を着るんだな」
落ち込んでいるらしい哀花は何も答えない。
無視をされたと感じた泰久は、話し掛け方が悪かったのかと思い、手紙のように何か時候の挨拶のようなものから始めた方が良いのかもしれないと考え、咳払いをして改めて話し掛けた。
「知っているか?こういう日のことを、エーテルが沸騰するような暑さと言うんだ。エーテルの沸点は約35度だからな」
しかしそんな泰久の言葉は哀花の反感を買うだけだった。
「うざい!知識アピールうざい!泰久のインテリ!今度からペダンティック泰久って呼ぶ!」
「ペダンティック泰久……。ブティック泰久みたいで洒落てるな」
「褒めてないし!!」
全身で今話し掛けないでくれオーラを出していたつもりだった哀花は、それでもしつこく話し掛けてくる泰久に対して憤りながらも、何故か許せてしまうそのキャラクターは流石だと思った。
「こちとらお姉ちゃんの卒業校行けなくなって落ち込んでるってのに……泰久はいつも通りだなぁ」
「優香の行った学校に執着する必要がどこにある?お前が受かった中学だって進学校だろう。これからどう勉強していくかだ」
「……お姉ちゃんと一緒じゃなきゃ意味ないもん」
泰久なりの励ましの言葉に対し、哀花は口を尖らせる。
「お母さんは、お姉ちゃんと同じくらいできないと許してくれない。お父さんだって、口では応援してるだのお前は出来る子だだの言ってくるけど、本当はもう私のこと諦めてるんだよ。今回のことで、私はますますあの人たちにとって“出来損ない”になっちゃったんだよ」
今後自分の扱いがより酷くなるであろうことを容易に想像できた哀花は、中学受験という格好の機会に両親を見返せなかった自分が嫌になった。
泰久は哀花の隣に腰をかけ、哀花の頭を撫でた。
「これからだ、これから。出来損ないかどうかは今決めることじゃない。お前にだって価値はある」
その甘やかすような優しい言葉に苛立ち、哀花は泰久の手を払う。
「ッそういう!口先だけの言葉が1番腹立つ!!誰だってそうでしょ!?その人の能力で相手の価値を見極めるでしょ!?泰久だってそうでしょう!?お姉ちゃんが好きでしょう!?」
泰久の優香への恋心などお見通しなのだ。
泰久も自分と同じく優香に憧れていることを、哀花はずっと前から感じ取っていた。
しかし。
「確かに俺は優香が好きだ。でも、だからってお前に価値がないとは思わない」
泰久はその事実をあっさりと肯定したうえで、哀花に価値が無いことを否定する。
「何でも完璧にこなすあいつはかっこいい。でも、できないなりに頑張ってるお前も、俺はかっこいいと思う」
――――その言葉がどれだけこの時の哀花を救ったか、泰久は知らない。
父親のような薄っぺらさを感じられないその言葉に、哀花は初めて心が大きく揺れるのを感じた。
(……そっか)
哀花は自分の胸の辺りを押さえ、甘やかな喜びが広がっていくのを確かめた。
(私は、誰かに頑張りを認めてほしかったんだ)
――また明日、立ち向かうための努力をしよう。
初めて本当の意味で前向きになれたこの夜の記憶を、哀花はその後8年に渡り宝物として抱くことになったのだった。
ある年の誕生日、優香は哀花を街に連れ出した。
てっきり泰久と一也、そして優香の3人でお祝いをしてくれると思っていた哀花は、突然2人で遊びに行こうと言い出した優香に疑問を抱き、「泰久たちはいいの?」と聞くと、優香はくすくす笑った。
「いいのいいの。いいじゃない、たまには。最近2人で出掛けてなかったし、それに……」
優香は言葉の途中で止めたが、哀花には優香が何を言おうとしたのかすぐに分かった。
“それに、もうすぐ戦争が始まってしまうから、あたしたちは滅多に会えなくなるでしょう?”
きっとそのようなことが言いたかったのだろう。
「お姉ちゃんは、どうして軍人さんになろうと思ったの?」
レストランで料理を待っている間、哀花は優香にそう問うた。
第三次世界大戦が始まりかねないと言われるご時世に、優香は急に軍人になると言い出した。
軍人は社会的地位の高い職業であったため、両親もそれに賛成した。
哀花だけが、姉の選んだ道を応援したいと思う反面、危険ではないかと納得できていない部分があった。
「4年前、テロがあったでしょ?」
「……うん」
日本帝国の首都の中心的役割を担う大部分が、テロリストグループにより1度破壊されたその事件は、哀花の記憶にもよく残っていた。
その年は世界のあちこちでテロ活動が行われた年で、被害を受けたのは日本も例外では無かったのだ。
日本帝国だけでも、約4000人にのぼる犠牲者が出た。
「あの時あたし、ライブ映像でその様子を観てた。まるで映画みたいだったわ。首都機能を統御するタワーが、外部からの攻撃で一気に崩れていったんだもの。同時に漠然と感じたの――きっとこの世界全体が、もうすぐ狂い始めるってね」
自国が攻撃を受けている光景を見て愛国心が高まるというのは、よくある話だ。
「例え世界が壊れていったとしても、この国だけは、死んでも守ろうって思ったの」
しかし哀花には、優香の中に単なる愛国心ではないものが隠されている気がして仕方なかった。
違和感を拭えずにいた時、頼んでいたオムライスが運ばれてきて、その話は終わりになってしまった。
「またオムライスぅ?哀花はレストランに来るといっつもそれね」
「だって好きなんだもん」
「ふぅん…。今度あたしが作ってあげよっか」
「お姉ちゃん料理なんかしたことないでしょ……」
「したことないけど多分できるわよー。ほら、あたしって天才だから?」
自信満々にウインクしてくる姉を見て、否定できないのが辛い、と哀花は溜め息を吐いた。
優香の頼んだ料理はまだ来ない。
優香は待っている間にふと思い出したかのように鞄をごそごそ漁り、中から小さな箱を取り出した。
「そうそう、忘れてたわ!食べてる時に渡すもんじゃないかもしんないけど、ハイ」
哀花はスプーンを置き、箱を受け取る。
中身が気になったのでその場で開けると、中には高そうなペンダントが入っていた。
嬉しい反面、嫌な気持ちがした。
優香はもしかすると、これを形見として自分にプレゼントしてきているんじゃないかと思ったからだ。
哀花の目にはそれが、優香から哀花への“最後のプレゼント”と言ってもいいほど、張り切った物に見えた。
「…………お姉ちゃん、死なないよね?」
哀花がそう聞いた途端、優香は何が面白いのかぶふっと吹き出した。
「ぎゃはははははは!え、何!?なんて!?」
「…いや、だから、死なないよね?って……」
「あたしに聞いてる!?」
「うん……」
哀花と2人でいる時の優香は必要以上に声が大きい。
周囲の目が集まるのを感じ、哀花はおろおろした。
「ぎゃはははははは!そんなこと聞いてくんの哀花だけよ、ほんと!何、あたしが死ぬとでも?」
有り得ないと言いたげな優香を見て、哀花は少しむっとする。
「……私、何もおかしなこと言ってないよ。お姉ちゃんだって人間なんだよ。能力があったって不死身じゃないんだよ。もうちょっと、危機感持ってよ」
咎めるようなその声音に、優香は漸く笑うのを止めた。
急に泣きそうな顔をして、「……哀花」小さな声で哀花の名を呼んだ。
「大好きよ」
化け物じみた能力を持つ彼女のことを人として扱うのは、彼女自身を心から心配する人間は、唯一哀花だけだった。