深を知る雨
―――優香が敵国の人間に情報を流したと言われ始めたのは、哀花が秘密の部屋を開けた数日後だった。
哀花がそれを知ったのは、無理に限界以上の能力を発動させたため高熱が下がらなくなった哀花の元に、泰久が看病に来た時だった。
「悪いな、優香じゃなくて。あいつはこっちに帰って来られるような状況じゃないんだ」
哀花のベッドの隣に座った泰久が、そんなことを言う。
「……何かあったの?」
「軍内部で少し揉めてる。優香の管理していた情報が漏れたんだ。あいつはサイバー攻撃を防ぐための機能として、普通の兵隊以上の機密情報を持ってる。それがよりによって敵国に漏れたんだから大騒ぎだ」
「……」
あの部屋に軍の情報があることは教えられたが、騒ぎになるほどの情報だとは思っていなかった哀花は、少しギクリとした。
しかも、敵国とはどういうことだろう。
情報を盗んだのは自分であるし、中身は確認していない。
ただでさえ高熱を出している哀花は、どういうことなのか深く考えることができなかった。
哀花の暗い顔を見て、優香のことが心配になったのだと思った泰久は、哀花の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だ、何も心配はいらない。元はと言えばそんな大切な情報を個人に管理させた上層部が悪い。お前は何も心配せず、早く体調を治せ」
「うん……泰久、忙しいのに来てくれてありがとう」
「あぁ。そうだ、もう1つ言いたいことがあって来たんだ。お前、Sランク能力者になったらしいな」
「……うん」
「凄いな、驚いた。努力した結果だ」
哀花は嬉しくなった。
優香への裏切りと引き換えに手に入れた能力ランクだとしても――――自分は泰久に褒められる存在になったのだと。
そして、苦手だと感じていたロイにもお礼を言わなくてはならないと思った。
自分をSランク能力者に育て上げたのは、他でもないロイなのだから。
しかし、哀花が秘密の部屋を開けた日から、ロイが哀花の家に来ることはなくなってしまった。
あんなに毎日来ていたのに、哀花が熱を出してからは1度も会いに来ない。
あの人は冷たい人だから、移りたくなくて来ないのだろうと哀花は思った。
自分の体調がよくなればきっとまたふらりと現れると考えた。
「優香が新ソビエトの国境沿いで自爆した」
けれどロイより先にやってきたのは、優香の訃報だった。
それは哀花の熱が漸く下がってきた時のことだった。
日本帝国は終戦に向けて動き出しており、泰久も日本に戻ってきていた。
何も言えず呆然と立っている哀花に、泰久は加えて説明をした。
「あいつは、情報が漏れた責任を取ると言って前線で戦った」
ぞわり―――それまでの人生で1度も感じたことのない類いの寒気が、哀花を襲う。
「……ッ嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!お姉ちゃんが死ぬはずない!!お姉ちゃんは強いもん!!誰よりも強いもん!!死ぬはずない!!絶対!!!」
「哀花、頼む、落ち着いてくれ」
「落ち着けるわけない!!そんな、何で……ッ」
―――“何で”?
自分がよく分かってるくせに。
「……っ、……」
「哀花?どうした?」
「そ、そんなの、おかしい、だってあの情報は、」
――“あの情報は私が盗んだのだ”。
そう言いかけて、哀花は思わず口を閉じた。
そんなことを言えば嫌われてしまう――こんな時にも保身に走る自分が、哀花は嫌になった。
「……お、お姉ちゃんは、敵国に情報なんか、売るはず、ない……」
「……」
「そう、そうだよ、有り得ないじゃん。あのお姉ちゃんが一体どこで敵国と繋がったって言うの?そんなの有り得ないよ。何でお姉ちゃんが責任取らなきゃいけなかったの?ねぇ何で?」
「……ロイ・エディントン」
「………え」
「大英帝国軍の男だ。優香の恋人だった」
ぐらりと、視界が揺れた。
それは貧血にも似た感覚だった。
「恋人を前に気が緩んだということも考えられる」
――ロイ・エディントン。
哀花はその名を反芻した。
不気味な黒い服とルーズパーマが、哀花の記憶の中で揺れた。
「……、ごめ、外の空気吸ってくる…………」
ふらふらしながら、転びそうになりながら、哀花は何とか庭に出た。
外は酷い雨が降っていたが、哀花は構わずずぶ濡れになった。
泰久はそんな哀花を痛々しく感じたが、今は1人にしてやろうと思いその場を立ち去った。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる、哀花の中に本来の優香の顔が、優しそうな目が、甦ってくる。
――――「大好きよ」
実の姉が死んだ実感を得て初めて、哀花は。
―――――己の罪の深さを知ったのだ。
「……っあ……、ああ、あ……」
よろよろと後ろに下がった哀花は、その後足の力が抜け、地面に座り込んだ。
「あ、あ、あ……あぁぁぁあああああぁぁぁあああああぁぁぁあああああぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあああああぁぁぁあああああぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッ……!!」
哀花は自分が怖くなった。
自分の中に潜む凶悪な感情が恐ろしかった。
(私あの時、何て考えた?)
「は、あは、あはは……」
力ない笑いが漏れる。
(いなくなればいいのにって。いなくなればいいのにって思った。本気でお姉ちゃんに消えてほしいって思ってた)
――――「哀しい花か。哀花ちゃんにぴったりの名前だね」
あれは、ある種の予言だった。
ロイは自分がこれからすること、それによって起こるであろう事態を全て予測したうえで、ああ言ったのだった。
――――不意に、哀花に当たる雨が遮られた。
「んもー、傘くらい差しなよー」
見上げると、いつの間に来ていたのか、大きな黒い傘を持ったロイが立っていた。
涙でぐしゃぐしゃになった哀花の顔を見て、ロイは悪魔の顔をして嗤った。
「頭の悪い哀花ちゃんに説明してあげる。あの部屋はね、優香の能力で複雑な電子ロックが施されていたんだ。俺らの国にいる能力者には当然開けられない。ドア自体を壊すことも考えたけど、そんなことをしたら部屋まで壊しかねないし、そうやって無理に入ろうとすれば優香に連絡が行く仕組みになってるであろうことは容易に想像できた」
「……私を、利用したの……」
「利用?嫌な言い方だなぁ。俺はただ、哀花ちゃんがずっと抱えていた劣等感を晴らすお手伝いをしてあげようと思っただけだよ」
刹那、哀花の超能力が体から溢れ出た。
ロイは反射的に宙に浮き、哀花から遠ざかる。
木々が揺れる。
ガラスが割れる。
近所に停車していた無人車でさえ、物凄いスピードでロイへと向かって飛んでいく。
ロイはそれを易々と弾き飛ばし、感心して頷いた。
「おースゴいスゴい。やっぱ哀花ちゃんは負の感情をパワーにできるタイプだね」
「殺してやる、殺してやる…!殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!!!!お前がお姉ちゃんをッ……!!!!」
「あはは、まるで俺だけが全部悪いみたいな言い方だなぁ。責任転嫁はよくないよー?まぁ自分のせいにしたくないのは分かるけどね。でも俺、哀花ちゃんみたいにいつまでも“良い子”でいようとする子がいっちばん嫌いだなぁ。自分の中にある汚い気持ちに気付かないフリしてさ。悪人に転がる寸前なくせに、さも自分は根っからの善人です、良い子ですって顔して生きてんの狡くなーい?」
早口で捲し立てるロイに、哀花は怯んだ。
「“お姉ちゃんなんか消えてしまえばいい”、そう思ったことはないの?一度も?本当に?少しの殺意も無かったって言える?」
「ひゃ、百が、九十になる程度だって、言ったじゃない……!あなたが!!そう言ったから……!!」
「でも哀花ちゃんの中に優香を陥れようって気持ちが少なからずあったから実行に移したんでしょ?結果的に優香は追い詰められたし、死んだ。これって哀花ちゃんの中にある悪意が優香を殺したってことにならない?ねえ」
ひゅっ――と哀花が息を呑む。
(……“殺してやる”?……違う)
くすくす笑っていたロイは、不意に、笑顔を消した。
(私が殺したいのは、この男じゃない)
「なあ、おい。返事しろよ。聞いてんのか?」
(私が、殺したいのは……)
「オマエの殺意が、優香を殺したんじゃねーのかよ」
(私が今殺したいのは――――自分自身だ)
絶望した様子の哀花を見たロイは目を細め、声を上げて嗤った。
「あはは、―――ほんっと可愛いね、オマエ」
哀花にもう自分を攻撃する程の気力がないことを確認してから、吹き飛ばされた傘を拾い、地面に立つ。
「可哀想な哀花ちゃん。ずっと辛い思いしてきたんだね。出来すぎた姉がいたせいで、ちゃんと自分を見てもらえない。ほんとは誰かに愛してほしかったのにねぇ?」
「あ、なたは…………、」
「ああ、脅えないでよ哀花ちゃん。俺だけは哀花ちゃんの味方だよー?だってー、」
あなたは、悪魔だ。
そう言いかけて、その悪魔の誘惑に負けたのは自分なのだと、哀花は痛切に感じた。
「共犯者じゃん、俺たち」
――――その言葉が、哀花を絶望の淵に突き落とすこととなる。
哀花はその瞬間思ったのだ。
責任を取らなくてはならないと。
姉の成し得なかったことをやらなければならないと。
姉の代わりに、この国を守らなければならないと。
姉の代わりに、次こそは、日本帝国を勝利に導かなければならないと。
姉の思いを引き継がなければと。
そして、
――――全てが終わった時には必ず、姉の後を追おうとも、思った。
斯くして、橘哀花は一種の自殺志願者になった。
彼女の中に姉を裏切った事実が生き続ける限り、彼女の思いは変わらない。
例え誰が止めたとしても、どんな言葉を投げ掛けたとしても、彼女が止まることはない。
彼女はこの8年間ずっと――――いずれ自分を殺すという強い意志を糧にして、生きてきた人間なのである。