深を知る雨
優
橘優香が自爆する前日まで、話を戻そう。
その日のSランク寮の空気は重苦しかった。
情報を流したとして上層部から糾弾された優香が、責任を取るため新ソビエトへ行くと言い出した直後だったからである。
ソファに座る優香は、場違いにも笑っていた。
「ねぇ泰久。あたしが死んだら、哀花のことを宜しくね」
この状況下で死という単語を出すにはあまりに優しい表情で、優香は自分の死後のことを泰久に頼んだ。
「……そういうことを言うな」
「今言わなきゃいつ言うの。この戦争、日本は負けるわよ」
優香の予想は、予知能力者も顔負けな程、必ず当たる。
泰久はそれを分かっていて、しかしここであまり暗いことを言わせてはならないと思い、否定した。
「今のところは多くの戦いで勝ってるだろ。敵国はもう弱ってる」
「殆ど嘘よ、そんなの。国民のやる気を削がないように嘘の情報を流してるだけ。特にあたしが行った半島での戦いでは、あたし以外全員死んだ。あたしはどんな人数差だろうが戦うつもりだったけど、撤退命令が出たわ。向こうには向こうの国のSランク能力者がいるし、いくらあたしでもたった1人じゃ勝てないってね」
おそらく他言無用とされているであろう事実をペラペラと泰久に話した優香は、頬に落ちてきた髪を耳にかけ、急に真面目な顔をして、独り言のように言った。
「できることならあの子に戦争の無い時代を残してあげたかったけど……もう、無理ね。勝っても負けてもいずれまた戦争よ。戦争はなくならない。世界平和なんて有り得ない。それなら、せめて……」
優香は何か言いかけて、止めた。
泰久は優香が何故軍に来たのか知っている。
何故こんなにも必死に戦っているのか知っている。
優香自身は言わないが分かっている。
――――哀花を戦争から守るためだ。
戦争がこれ以上酷くなれば民間人への被害は避けられない。
優香は今度は妹のため、被害が大きくなる前に戦争を終わらせようとしている――自分の命を犠牲にしても。
ここでどれだけ止めたところで優香は止まらないということを、泰久は悲しく予感した。
「……なぁ優香。俺はたまに、お前に傷を付けて、ぐちゃぐちゃに泣かせてみたくなる。お前が、強いふりばかりするから」
橘優香という人間が、完璧であると誰もが誉めそやす、その実酷く寂しい女性であることを、泰久は知っている。
彼女は“自分に何が求められているか”に関して、誰よりも敏感だった。
そして求められていることに応じるだけの能力が十分に備わっていた。
期待されれば期待通りに動き、人の期待を裏切ってしまうことを何よりも恐れた。
完璧などではないのだ。
優香は誰よりも弱いがために、完璧にならざるを得なかったのだ。
そしてそんな自身の弱さに気付かず、1人で背負い、守るべき者を守ろうとする優香が、泰久は嫌いだった。頼ってほしかった。弱音を吐いてほしかった。
しかし優香は絶対に、誰にも弱い部分を見せない。
「泰久には無理よ」
「そうだな。俺は1度も、お前の内側に入れたことがない。お前の外側からお前を傷付けることは無理だ」
「……ごめんね」
不意に、優香がぽつりと小さく謝罪した。
それはおそらく、これほど自分を想ってくれている泰久に対し、同じ分だけの気持ちを返せないことへの謝罪だった。
「あたし、例え泰久が命を落としたとしても、哀花が助かればそれでいいって思ってる」
「……あぁ」
「あの子だけは、頼んだわよ」
「……分かってる」
「あの子だけだったの。両親でも友達でもなく、あの子だったの。幼い頃、“あたし自身”を見てくれたのは」
ふっと切なげに笑った優香の表情を――哀花の話をする時にのみ見せるその表情を見て、泰久はあることを確信した。
泰久には、ずっと気付かないふりをしていた事柄があった。
薄々分かっていながらも、絶対に踏み込まずにいた部分があった。
それは長年優香に恋をしていた泰久にだけ分かる――優香自身の究極の“秘密”だった。
「……好きなのか。哀花のことが」
――――その秘密とは、優香の内にある、禁断に禁断を重ねた恋心の存在である。
この世界のどの恋よりも純粋で綺麗な、人間的な欲望とは無縁の恋情。
ただ心の拠り所とし、ただ守りたいと思い、たとえ傍にいなくともその人間のことを常に考え、その人間のためになることだけを望む――そんな、崇拝にも似た恋だった。
優香は、泰久に知られていたことを知ってか知らずか、否定も肯定もせず美しく微笑む。
「秘密よ、泰久」
その時泰久は、初めて優香の本当の心に触れた気がした。
最期の最期で初めて彼女の内側に入れた気がした。
「死んでも、あの子だけは守って」
その返答が、答えであるように思えた。
その時泰久は思ったのだ。
初めて聞いた幼馴染みの本音を守ろうと。
例えどんな拷問を受けようとも、どれだけ自分の命が脅かされようとも、―――この秘密だけは絶対に守り通してみせると。
「泰久もきっと好きになるわよ、哀花のこと」
くすくす笑いながら、優香は飲みかけだった紅茶を飲み干して立ち上がった。
「泰久はあたしが好きでしょう?そのあたしが好きな哀花のことは、泰久も好きになる」
「意味の分からない方程式を立てるな」
「残念ながら、あたしの予想って当たるのよね~」
こう笑って大陸へ行った優香が泰久の元に戻ってくることは、二度と無かった。
優香の予想通り、戦争はその数ヶ月後日本の負けという形で終結した。
優香の予想は必ず当たる。
もう1つの予想も、案の定当たった。
この8年後、泰久は哀花に恋をすることになる。
かつて優香に向けた恋心が憧憬に近いそれならば、哀花に向けるそれは守りたいという気持ちが前面に出た、庇護欲に近いものである。
泰久は知っている。
哀花の気持ちを十分に分かっている。
たった一言好きだと、愛していると伝えれば、恋しい女性が自分の物になることを分かっている。
――――しかし、だからこそ伝えられない。
自分がどれだけ哀花を慕おうと、哀花のために死んだ優香の気持ちには到底敵わないであろうことを知っているから。
かつて好きだった女性が唯一愛しく思っていた相手を、自分の恋人にするわけにはいかない。
これは何年もずっと抱え続けてきた優香の秘密であり、泰久の秘密でもあるのだった。