深を知る雨
2201.06.03
《12:50 Sランク寮》一也side
哀花さんがいなくなってからもうすぐ1ヶ月が経とうとしている。
世界情勢が悪化していく一方で、哀花さんに近付く手立ては一向に見当たらない。
誰も大中華帝国に入国できないのだ。
僕の能力の影響下にある人間も全員、結界の中へは入れなかった。
大中華帝国の中将はただの子供だと思っていたが、結界の強力さだけで言えば優香様に引けを取らない。
あの日から泰久の口数は少なくなった。
泰久が喋らないということは、必然的に僕が発声する機会も少なくなる。
あれからSランク寮は静かだ。
けれど、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
事の重大さを分かっているのは、おそらく僕だけなのだから。
――読んでいた電子新聞から目を離して端末を机に置き、それまで泰久に言わずにいたことを吐き出した。
「死ぬつもりなんですかね、哀花さん」
「……は?」
浮かない表情で窓の外を眺めていた泰久が、眉間に皺を寄せてこちらを見上げてくる。
やはりこの男は何も分かっていないらしい。
「大中華帝国で死にたいそうですよ?優香様と同じ場所で死にたいとおっしゃっていました」
1度否定はされたが、こうなると疑いようがない。
哀花さんはきっと――あの場所で死ぬつもりだ。
「そんなことをいつ言っていたんだ」
「彼女が20になった日ですかね」
「何故それを早く言わない?」
「――言えると思いますか?」
聞き返せば泰久が黙ったので、言葉を付け加えてもう1度問うた。
「哀花さんのこれまでの人生を何も見てこなかったあなたに、言えると思いますか?」
僕が言えば泰久は当然説得しにかかっただろう。
だが何も知らない泰久であれば、きっとその際的を射ない慰めの言葉をかけていたはずだ。
そうすれば哀花さんは、より自分を隠すようになってしまったに違いない。
哀花さんの置かれていた状況を正確に知らない人間に口を挟ませるのは危険だった。
「僕は彼女が8年前、どこで敵国に通じたのか知りません。でも、哀花さんが優香様に消えてほしいと感じたのは自然だと思います」
「……優香といる時、あんなに楽しそうにしていたのにか?」
「不平等は多かれ少なかれ人を傷付けますよ。この世は才能ですら不平等だ。どうしたって努力でカバーできない部分はあります。人間は元々同じ位置にいない。人のスコアばかりを重視するあの家庭において、身近に出来すぎた比較対象がいるのは酷ですよ」
泰久は考え込むようにして黙った。
理解できない故の沈黙なのか、少しは哀花さんの気持ちを想像しての沈黙なのか、僕には分からない。
この男の煮え切らない態度が――
「……ッいつまでも、」
――――毎度、僕の癪に触るのだ。
「遠慮してんじゃねぇぞドクソヘタレが!愛してるでも傍にいてほしいでも何でもいい!てめぇが言葉で縛っときゃどうにでもなっただろうが!」
どう足掻いたって哀花さんが好きなのは僕じゃない。
それなのに。
泰久の言葉ならあの人に響くのに。
こいつはその特別な力を、1度も使おうとはしなかった。
「言える時に言っとけよ!」
何もかもを当然のように持っていて、しかしその有り難みを分かっていない――僕は泰久の、そういうところが嫌いだ。
「……あ?」
僕が怒鳴ったことで、泰久の方もピキリと苛立ちを顕にして立ち上がる。
「勝手なことをほざくなよ。あいつは優香の妹だ。そう簡単に手を出せるはずがないだろう。俺には俺の事情がある」
あーそうですね?あなたの大っ好きな優香様の妹さんですもんね?そりゃ手も出せませんよね?
あーハイハイハイハイ、いつまでも優香優香優香優香優香……ッお前は信者かよ!
「それに俺が哀花の気持ちに応えるのはお前だって嫌だろう?監禁するほど懸想してるじゃないか。なぁ?」
「ええ嫌ですよ!でもあの人に死なれるよりはマシだ!」
「全部哀花の気持ちに対して素直に応えなかった俺の責任だと言いたいのか?哀花にそういう願望があると何年も前に気付いていながら対策を講じなかったお前もお前だろ!」
「あれほど強い意志を持った哀花さんを僕ごときに変えられるとお思いで?ご存知ないかもしれませんがあの方はあなた以外の男に対しては酷く冷めてらっしゃいますよ?それこそちょっとやそっとの言葉じゃ響きません。だからこそ監禁したのに、それを邪魔したのはあなた方でしょう?」
「“だからこそ監禁した”?哀花の自殺防止を口実に自分の歪んだ欲望をぶつけていただけだろう?正当化も大概にしろ!」
今にも殴り合いになってしまいそうなほど空気が張り詰めた――――その時だった。
「あー……あいつがおらんようになってピリピリしとんのも分かるけど、言い合いすんのやめてくれへん?おにーさん方」
最近よくSランク寮に来るようになった、相模遊が居間に入ってきたのは。
泰久はこの男に無断で寮に入ることを許可している。
この男が強力な協力者だから、だ。
「もっと機嫌良さそうにしてくれよ。有力な情報手に入れたんやから」
相模遊は泰久の座っていたテーブルに新しく手に入れたらしい資料を広げた。
泰久がテーブルに視線を落とす。
僕も近付き、資料を手に取った。
「あの場におった大中華帝国少校の追跡能力について調査しとったんやけど、あいつ、視界に入れた生物の情報を遺伝子レベルで記録できるみたいやな。本来はそれを利用して追跡するための能力みたいやけど、今回はその情報を結界能力者と共有することで特定の人物だけを大中華帝国に入れれらんようにしとるってわけや」
読心能力者には優れた情報収集力がある。
この男を味方につけておいて正解だった。
つまり、現在張られている結界は――
「あの場におらんかった人間には、多分結界能力が通用せん」
あの日あの屋内会場にいた人間及び、それらの人間の超能力の影響下にある人間以外には、有効ではないということだ。
ならば軍外部の人間を大中華帝国に向かわせればいい。
「適当な人間を脅して行かせましょうか。もし無理であればまた新しく調達すればいい」
「人間をモノ扱いするとこはさすが催眠能力者やなぁ。でも待てや、もっと適任がおる」
にやりと笑った相模遊は、僕の手から資料を奪った。
「一般部隊の連中も、あの場におらんかったやろ」
……あぁ。
成る程、1人いる。
哀花さんと面識があり、ある程度話したこともあり、かつあの場にいなかった人間。
「――瀬戸川麻里。あいつなら透明化能力持っとるし、上手くいけば大中華帝国の軍事施設に侵入できる」
哀花さんは女性に弱い。これ以上無いくらいの適任だろう。
しかし泰久だけは納得していない様子で指摘した。
「あいつ1人で行かせるのは危険だ。哀花と対面する前にあいつ自身に危害が及ぶ可能性がある」
確かに大中華帝国軍事施設への潜入なんて1人で為し得ることじゃない。
まして瀬戸川麻里はいざという時に逃げ切れるような超能力を持っているわけでもない。
見つかれば終わりだ。
しかし、相模遊はぶはっと吹き出した。
「分かっとらんな。あいつはやる時はやる女やで。お前らのどちらかが1人で行くよりも有能かもしれん。――哀ちゃん止める最後のチャンスや。伝えたいこと全部、麻里に伝えとけ」
先程の会話を居間の外で聞いていたらしい相模遊のその言い方からは、絶対的な自信が感じられた。
それを聞いた泰久はちらりと僕に視線を寄越す。
「……何ですか」
「さっきはああ言ったが、お前がどうしようもなかったことは分かる。お前に責任はない」
泰久はそこまで言って1度区切り、溜め息を吐いた。
「お前の言う通りだ。俺がちゃんと哀花を見ていればきっとこんなことにはならなかった。この8年、あいつの様子が変わったことには気付いていたのに……何をしているんだろうな、俺は」
「……やめてくださいよ。こっちだってただの八つ当たりです。全ての責任があなたにあるなんて思ってない」
椅子に腰をかけた泰久は、数秒の沈黙の後再び口を開く。
「……哀花のあの言葉を聞いた後、思い返せば納得できる点がいくつかあったんだ。8年前、優香は情報が漏れたことに対して何も言わなかった。俺との会話でも、一切触れなかった」
……あぁそうか、あの人は。
「――優香は知っていたんだろう。あの優香に自分の管理している情報の漏れ所が分からないはずがない。あいつは哀花が敵国に情報を渡したと知ったうえで、俺に哀花を頼んできた。哀花の裏切りを何の躊躇いもなく許容してたんだ。……“姉”ってのは、凄いな」
あんなに中身のない彼女でも、人の心がないように見える彼女でも、やはり哀花さんを大切に想う気持ちは本物だったのだ。
「優香はとっくに哀花のことを許してる。そのことを哀花に伝えなければならない。瀬戸川に託す。――俺の、気持ちもだ」
覚悟を決めたような顔をした泰久は、
「俺はお前から言わせれば、“ドクソヘタレ”らしいからな?」
僕を見上げて、そう意地悪く笑った。
《18:00 軍事施設外》麻里side
「……ええっとお、千端さんの本名は橘哀花で、Sランク能力者で、今大中華帝国の上将の地位にいて、連絡が取れないうえ、あなた達超能力部隊の人間は大中華帝国に入国できないってことぉ?で、わたしに伝言を頼みたいって?」
醤油ラーメンを食べる手を止め、伝えられた内容を復唱する。
ここは相模くんオススメのラーメン屋さんで、今日は奢ってくれるらしい。
わたしを働かせるにしてはやっすい店だけど、まぁ緊急事態なのだし許してやろう。
「知らんかったんか?意外やな。一般部隊の方にも情報回っとるもんやと思とったんやけど」
正面にいる相模くんは味噌ラーメンを食べている。こいついっつも味噌ねぇ。
「そもそも超能力部隊の情報は一般部隊の方に流れてこないし、調べないと分からないわよぉ。これでも結構びっくりしてるわ」
お昼に突然連絡が来て大中華帝国行く準備しろって言われたから一応輸送場のチケット仮予約しといたけど、まさかこんな内容とは。
「ていうかそれ、戦争が始まる前に行っといた方がいいぱてぃーんよねぇ?」
「あぁ。できれば今日にでも出発してほしい」
大戦が始まればいつ休みを取れるか分からない。
わたしは端末を開いて明日の休暇申請をし、その後端末を鞄に仕舞った。
すると、
「……案外あっさり受け入れるんやな。お前、自分が危険に晒されることは嫌うイメージあったんやけど」
怪訝そうに見られた。
……まぁ確かに、前のわたしなら行かなかったかもしれないわねぇ。
軍事施設に潜入なんて、どう考えたってリスキーだし。
他国の領土で問題起こすのも面倒で嫌だし。
……でも。
「色んなバカを見てきたわぁ。あなたとか、千端さんとか。自分の危険を顧みず、躊躇いもなく人を助けようとする人たち。わたしには理解できないしそんな風になりたいとも思わないけどぉ、1度くらいはそっち側に立つことにも憧れてたのよ」
てっきり笑われると思ったのだが、相模くんはラーメンを食べる手を止めて何か有り得ないものを見るかのような神妙な顔つきでわたしを見てきた。
「……どないしたんやお前、気持ち悪いぞ。酔うてんのか?」
「思いっきり素面なんですけどぉ?折角人が良いこと言ってんのに酔っ払い扱いしないでくれますぅ?しかもこの店お酒置いてないしぃ!」
バンバンテーブルを叩いて抗議したが、相模くんはまだ納得できていない様子でジロジロ見てくる。
あーハイハイ、どーせわたしは人助けなんて似合わない女ですよ、と溜め息を吐いて水を飲むと、目の前の失礼な男が吹き出した。
「冗談やって、ぶすっとすんなや。有り難いと思とるよ」
「ほんとに思ってるわけぇ?このわたしが、1人で、危険を冒してまで、大中華帝国へ行くのよぉ?もっと感謝しなさいよ」
「お、いつものお前らしくなってきたやん」
わたしを何だと思ってんのかしらこの男……と嫌になりながらも再びラーメンを啜る。
それにしても千端さんが、ねぇ。
Sランク能力者だってことにも驚いたけど、それ以上に驚いたのは、死のうとしているということだ。
まぁこんな時代に軍人やってる人なんてほぼ自殺志願者みたいなとこあるけど、それでも一応は皆、生きて帰ってこようとしている。
いくら軍人だからって、最初っから死ぬつもりの奴なんてそういない。
……今までどんな思いを抱えて生きてきたのだろう。
あんな小さな女の子が死ぬことを意識する程の罪悪感というものを、わたしは想像できない。
……馬鹿ねぇ。あなたみたいな人を必要としている人だって沢山いるでしょうに、罪悪感に囚われて道を1つに絞ってしまうなんて。
ラーメンを食べ終わったわたしは、荷物を持ってすぐさま立ち上がり、相模くんに対しクスリと笑ってやった。
「今日はありがとう。伝言を無事伝えて帰ってこれたら、今度はもっと高いレストランで奢りなさいよねぇ?」
――――生きようと戦うことにこそ意味があるのだ。
あんな子を、自ら死なせたりはしない。