深を知る雨
終章

終章




 《12:00 ???》



――……私は自分が何をしたのか、よく知らない。

幼少期からの記憶を消されてしまっている。

家族の顔を知らないし、これまでの人生を知らない。

思い出そうとすれば靄が掛かる。

だから、いつの日か思い出そうとすることをやめた。

私は日本帝国人らしい。

でも今は他国にいる。

この国がどんな国なのかも、まだ掴めていない。

私は学生というものをやっている。

将来は研究者になることが夢だ。


「暑いね~哀花」


私の隣で、友達が空を見上げてこう言った。

太陽の照り付ける夏だ。


「そうだね。こういう日のことを、エーテルの沸騰するような暑さって……」


言いかけて、私は口を閉ざした。

――――誰にこんなことを教えてもらったのだろう?

どこで知ったのだろう。

いつ知ったのだろう。

やっぱり何も思い出せない。


――――何か大切な物を、無くしてしまったような気がする。


「哀花?」


友達が不思議そうに私の名前を呼んだ。


「……ううん。何でもない」


私は空から目を逸らし、友達の隣を歩いた。





 《20:00 日本帝国》



「やっほーう、芳孝くん。元気ぃ?」


ひらひら手を振りながら部屋に入ってきた女は、珍しく軍服ではなくスーツ姿の彼を見て驚いた顔をした。


「いやー、びっくり!芳孝くん何でも似合うのね」
「……9年ぶりに会って最初の言葉がそれかな」


溜め息を吐いた男は、慣れた手付きで彼女の好きだった珈琲を入れて彼女に渡した。


「――何故僕の記憶だけ消さなかった?」
「だって芳孝くん、あたしのこと忘れたくないんでしょ?」


男は不意を突かれたように暫し黙り込んだが、すぐにふっと破顔する。男がこの女にしか見せない表情だった。


「君には驚かされるな、昔も今も。佳祐くんを匿っているとは思わなかったよ」
「見殺しにするには惜しい戦力だったもの」
「それだけか?」
「それだけって?」
「佳祐くんと薫くんには随分世話を焼いているらしいじゃないか。戦後処理中にあの2人を会わせたんだろう?」


男の入れた珈琲を啜りながら、女は「そうねぇ」と考える素振りを見せた。


「似てるから、お節介したくなっちゃうのかもしれないわね」


何に、とまでは言っていないが、察しの良い芳孝にはすぐに理解できた。


「……君にとってあの8年は、彼女に平和を捧げるための8年だったんだな」


平和という言葉の似合わないかなり強引な手法ではあるが、事実戦勝国では内部混乱が収まらず、次の戦争どころではなくなった。

新しい国際協力組織が設立され、多くの国が加盟した。どの国も疲弊してしまった、今こそ協力し合う時だと嘯いて。

各国は戦争という経済活動の多大なリスクを実感し、口を揃えてもう懲り懲りだと言った。

少なくとも今後数十年において、また戦争が始まることはないだろう。


「橘哀花に関わった人間から、徹底的に消したそうじゃないか。彼女に関する記憶を」
「会いに行かれても困るもの。あの子には新しい人生をあげたいの。軍とは無関係のね」


珈琲を飲み干した女は、カップをテーブルに置き、クスリと思い出し笑いをした。


「――あぁ、でもなかなか面白いことを言ってくれた子がいたわ。あの子の友達に」


それは約1年前、抹茶ラテの美味しい店でのこと。


「もしもあの子のことを思い出してまた出会うことができたなら――それは運命だからあたしの負けだってね」


負けを知らない彼女にとってその言葉がどれほど意外なものだったか、彼は知らないだろう。






かくして、
第四次世界大戦は
終わりを迎えた。










































































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