深を知る雨

誰かの話




 《16:00 北海道某所》


訓練を早退し、外出許可を取って育ての母親の見舞いに訪れた色の白い男は、病室の前で躊躇うように立ち止まった。

育ての母親は精神を病んでしまっている。自分が会いに来たからといって、喜ばないであろうことは目に見えていた。

――――病ませてしまったのは自分なのだから。

「ッ来ないで!来ないでぇぇえええええ!!!」

案の定、彼女は男の姿を見た途端、叫びながら隣にあった時計を投げ付けた。

「異常者!化け物!人で無し!気違い!狂人!!あなたは違う!私の小雪じゃない!私の可愛い小雪じゃない!返してよ!私の小雪を返してよォ!!あなたみたいな人間にしたくて育てたわけじゃない!!」

幼い頃自分を大事に育ててくれた女性が、酷く脅えた目で自分を見る。

男は無表情のまま花を女性の近くのテーブルに置いた。しかし彼女はその花をすぐに床へと叩き付け、「あぁあああああぁあああああぁあぁぁっ……!!」と廊下まで響くほどの声を上げる。

軍の訓練で大きな音を聞くことはよくあるとはいえ、この音だけはなかなか慣れないな、と男は思った。





「もう来ないでもらえませんか」

廊下で会った医者が言う。何度も聞いた台詞だった。

最初は気を遣ってオブラートに包んで伝えてきたこの医者も、今では怖い顔ではっきり言うようになった。

息子が来ることで彼女の精神状態が不安定になるのは、誰が見ても明らかだったのだ。

しかし、男の答えは決まっている。

「…また来ます」

彼には自分のその言葉が、自分の異常性を受け入れてはくれなかった育ての親への恨みから来るものなのか、過去にしてしまったことへの罪悪感から来るものなのか分からなかった。

彼女を苦しめたくてここへ来ているのか、許してもらいたくてここへ来ているのか、わからない。

何故あの時自分は、感じた異常を彼女に打ち明けてしまったのか。

本当は受け入れて欲しかったのかもしれない。

育ての親に、自分の異常ごと抱き締めて欲しかったのかもしれない。

それまで無条件の愛を享受していた少年は、彼女なら受け入れてくれると心のどこかで期待していたのだ。

唯一自分の秘密を知る育ての母親。恐ろしい秘密を共有する相手。

こうして病院に来る度、自分の秘密が他者を壊してしまうことを、彼は痛い程実感する。



男は無性に煙草が欲しくなり、病院から走り出て無我夢中でポケットを漁った。

息が苦しい。いっそこれを食べて死んでしまおうか。自分のいる病院の駐車場で息子が死ねば、あの女はどんな気持ちになるだろう。


―――なんて生き辛い世界なのだろう、と男は思う。男の中の、手に余る異常性が男自身を苦しめる。周囲をも苦しめる。

「…こんな……人間に…っ、生まれてきたかったわけじゃない……!」

煙と共に吐き出した想いは、冬の冷たい空気の中へと消えていった。




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