深を知る雨
《4:30 Aランク寮》
Aランク寮に戻ると、ついさっき起きたらしい遊が軍服に着替えている最中だった。
遊って部屋じゃなくてここで着替えてんの?破廉恥な!
その肉体美から思わず目を逸らしてしまう私だが、楓は何とも思っていないようで、遊を素通りして上の階へ向かおうとする。
「え、楓、もう部屋戻るのか?」
「ええ。そろそろ薫が起きる時刻だし」
……あ、そういえば薫と口利かないとか言ってたっけ。
薫めっちゃ避けられてんじゃん……ちょっと面白、いや、気の毒だな。
「どうしたもんやろなぁ」
楓が行ってしまった後、着替え終わった遊がハァ、と大きな溜め息を吐いてぽつりと独り言を言う。そしてもう一度、今度は私の方を向いて聞いてきた。
「なぁ、おい、チビ。どないしたらええんやと思う?」
「え?何を?」
「薫と里緒。仲良くなれるとかいう空気ちゃうねん。楓もあんな調子やし、一度言い出したら聞かんのが楓やからなぁ」
疲れたような声を出してどさりとソファに座り込む遊の足は、やっぱり長い。
「薫と里緒は喋らんやろ?薫と楓も喋らんやろ?寮帰ってきたら静かで敵わんわ」
「……それは相談か?」
「は?」
「相談か?オレへの!遊、手に余ってオレに相談してんのか?そんなにオレって頼れる男?いやあ、オレ相談とかあんまされたことないから嬉しいわ!頼られちゃってんだなー、オレ!しっかりしてる風に見えんのかな~?えへ、えへへへへへへ」
「やっぱええわ」
「すんません調子乗りました真面目に考えます」
……とは言っても、私は未だ起きてる里緒に会ったことがなければ、会話したこともない。どういうタイプの人間なのか全く知らない。
楓に働きかけるのが無理なら薫と里緒に仲良くなってもらうしかないのだが……と、思っていると。
かたり、と音がした。誰かが床を踏む音だった。
音のした方向へ目を向けると―――初めて、里緒と目が合った。
黒縁の眼鏡の奥の茶色っぽい瞳が揺れる。華奢で女の子みたいな見た目をしているが、おそらく私よりずっと身長が高い。遊までとはいかないが。
「……っあ、えと、ごめん!初めまして!」
朝起きたら知らない男が寮にいるなんて里緒が怖がると思い慌てて後退り、距離を取るため部屋の隅まで行く。
「……」
里緒はじっとこちらを見つめている。
「オレ、 千端哀っていうんだ。ごめんな、いきなりお邪魔してて。でも怪しいもんじゃないし、里緒に近付いたりしないから、」
「――――……優香?」
呼吸が、止まるかと思った。
私はそれ以上言葉を発することができなくなり、里緒とただただ見つめ合う。
視界が揺れる。鼓動が速くなる。
―――何で。何で何で何で何で。その名前を。
「誰やねん優香って。昔の女か?」
「……」
「こいつ女みたいな見た目やけど一応男やで。Eランクの隊員や。間違えたんな」
「……」
遊が説明をしても、里緒は遊の声が聞こえないていないように何も言わず私を見てくる。
何が怖いかって、見覚えがないこと。多分私と里緒が過去に会ったことはない。だけど里緒は“あの”名前を知っている。どういう、関係だ?
里緒は暫く私の顔を凝視した後、黙って部屋へ戻ってしまった。
その華奢な背中を怖いと、脅威に感じた私は、遊の前だというのに険しい表情になってしまう。幸い遊は私の変化に気付いていないようだが。
「何やあいつ。よう分からんけど寮に男来ても暴走せんくなったなぁ。ええ傾向や」
「……おう……そうだな……」
弱々しく返事をして、私は「そろそろ帰るわ」と早々にAランク寮を後にした。
いつもはしつこいくらいいるせいか遊には不思議そうな顔をされたが、得体の知れない里緒が怖くてここにはいられない。