獣紋の聖女

1 獣紋の聖女


「トランス・インプレッション……?」

 私の左手の甲にある獣紋から、淡いピンクゴールドの輝きが放たれる。
 確認するまでもない。男女が出会ったときに起きる、獣紋と獣痣の合致。わかりやすくいえば、『運命の人を知らせる光』だ。

 夢かと思って、いったん小屋のドアを閉めてしまう。その際にドアの向こうから「なぜ閉める! 戻れ!」と命令口調で叫ばれた。肩がビクッと震える。

 ……だって。仕方ないじゃない。
 もしかして、閉め終えたあとにもう一度開ければ、元に戻るかもしれないと思ったんだもの。
 火事だと思ったのは、見間違いかもって思ったんだもの。

 ローヴェルグ公爵領の外縁地、グリオーニ湖畔にある小屋の中には二人の人間が居た。
 ひとりは中央でがんじがらめに鎖で縛られ、吊るされている黒髪の青年。
 見惚れるほどの均整のとれた身体からして騎士かなと思うけど、どうして上半身が裸なのかまではわからない。
 もうひとりは、立派な貴族服に身を包み、火のついた松明を持っている青髪の青年。私が入ってきた瞬間、剣を抜きこちらに向けた。黒髪の青年を守るように間に立ちはだかる。
 不幸中の幸いか、まだ火は燃え広がっていなかった。だから私も火傷をしないで済んだのだけど――そのかわり、私の左手にある獣紋から光が放出した。

『……嫌っ、もう獣紋に縛られた結婚なんかしたくない!』

 とっさに思った。
 だって、せっかく回帰したのに。
 不幸な結末を、やり直せると思って家を出てきたのに。
 また獣紋のせいで哀しい思いをするなら、やりきれない。
 もう二人が何者で、ここで何をしていたかなんてどうでもいい。原因はわからないけれど、こうしてトランスインプレッションの光が発してしまった以上、この先の展開は考えなくてもわかる。

『獣紋が合致した相手との結婚』――それがこの国で生まれた貴族女性の義務だ。

 万が一、最初の出会いで相手に気に入られてしまえば、すぐに求婚されてもおかしくはない。けれど、今の私はやすやすと応じる気にはなれない。
 とりあえず、もう一度扉を開け、煙の中の青年たちに向けて頭を下げた。
 
「すみません、お邪魔しました! その……お二人の幸せを祈らせていただきます!」

 この場合の『祈り』は『獣紋は合致したけど、恋人としてのお付き合いはお断りしますよ』、という意味合いだったりする。
 女性のほうから交際を断るときによく使われる言葉で、リムディア国の男性ならば大抵理解を示してくれる。
 炎の中でもはっきりとわかるように言い放ち、国神リムの名を呟いてから相手の幸せを祈った。
 すると、辺りを包んでいたピンクゴールドの光はいっそう大きく膨れあがり、ついには視界さえもうっすらと覆うほどになった。

「あっ、君、せめて名前を――その、あやしい者じゃないから!」

 身動きの取れない黒髪の男性が、私をじっと見つめる。
 ドキッとした。とても、瞳に熱がこもっていたから。
 あんなふうに、見つめられることなんか今までなかったから。
 一瞬のことのはずなのに、まるで長い時間、見つめ合ってたような気分になる。
 思わず「私の名はコルオーネです」と言いそうになって、息を詰める。
 私は無言で目をそらし、背を向けた。

「ああ、待って! 追ってくれ、ゼンメル!」
「追うのはいいけど。でも、お前を放っておいたら予定通り焼け死ぬんだが……まだ、自決する気あんのか?」

 光の向こうで、そんな会話が聞こえた。
 どうやらもう一人の青年が助けてくれるような素振りだ。さほど深刻な事態にはならなさそうな様子にホッとして、逃亡を再開する。
 ついクセで、カーテシーだけはしてしまったけれど、途中でやめたしあれくらいじゃ私が貴族令嬢だとはわからないだろう。
 素朴なワンピースを着ていてよかった。煙も濃かったし、顔もそのうち忘れてくれるかもしれない。

「素敵な人、だったけど……」
 胸の動悸をおさえながら、その後に続く「きっと私を選びはしないわ」という言葉を飲み込んだ。
 トランスインプレッションは、女性側には影響はないと聞いていたのに。
 こんなにたやすく心が動くとは思わなかった。もしあのまま、会話を続けていたら……と左手の甲を見つめる。

 私の手の甲には、今、三つの獣紋がある。彼がこの中のひとつと同じ獣痣を持つのなら、いったい何の獣なんだろう。
 そんなことを考えながら、ひたすら走ったのだった。


*** 


 この世界では、男は皆、成長過程で『獣化』という病に悩まされる。
 一方、女はランクの差こそありはするものの、全員がもれなく聖女であり、獣化を治す力を持っている。

 獣化した男は、放置すればやがて理性をなくし本物の獣になってしまう――その病ともいうべき症状を治すのが、若い女たちである。
 聖女たちは生まれもった獣紋を使い、愛する男に祈りをささげることで、相手を獣化から救う。
 恩を受けた男たちは、祈りをささげてくれた聖女に対し、生涯尽くすことで恩を返す。
 一度結ばれた男女は離れることなく、死ぬまでお互いを尊重し、愛しあう(つがい)となる。
 
 これは神話の時代から、「愛の物語」として広く人々に推奨されてきた。 
 番の神、猫神リムと竜神グランディスを主神とする、獣人の王国――リムディア。
 建国より千五百年。生活様式の変化が多様化するなかでも、獣化に苦しむ男たちは、依然として聖女の力を欲していた。
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