獣紋の聖女
コルオーネが去ったあと、小屋の中では青年ふたりが、それぞれ違う意味でため息を漏らしていた。
「……ゼンメル」
「何?」
「僕は夢を見ているのかな……それとも、もう死後の世界に来ている?」
半裸の黒髪の青年はぼぅっと虚空を見つめている。
すでに身を縛っていた黒鉛の鎖は外され、火も消えた。焦げた香りが充満する小屋の中、淡いピンクの光を身体にまとわせつつ、ただ床に座している。
対して身なりのいい青髪の青年は、速やかに消化活動を終えたあと、にやにやと眼下の男を見下ろした。
「まぁ、落ち着けよレイフェ。――いや、レイフェ・カイザー・リム・ディアル陛下? これは夢じゃない。今いる場所は現公爵領のグリオー二湖のほとり。別名、神獣殺しの地という不名誉な名までついている、結界に守られた小屋の中だ」
目の前に跪かれ、ピタピタと頬をたたかれてもレイフェはまだ夢見心地だ。腹心であるゼンメル・ローヴェルグ公爵子息に揶揄されても、特に反応を示さない。
「……君の結界が緩んでいたのかな? なんであの少女はここまで来れたんだろう」
「いや、確認してみたところ、異常はない。あくまであの子の力だよ」
「ではあの少女が、類まれな聖女ってことかい?」
レイフェの黒々とした瞳が動く。奥に僅かな焦りを含んでいるのを見て、ゼンメルはますます上機嫌になった。
「そう考えるのが自然じゃね? 鳥獣の結界を抜けられるなんて、少なくともランク4以上の聖女にしかできない芸当だ。決まりだな」
「決まりって」
「なに惚けてんだよ、陛下。喜ばしい限りじゃないか。『運命の相手』が現れた以上、死ぬ必要がなくなった。もうこんな風に苦しまなくてもよくなったんだ。国あげての祭だろ、これは」
立ち上がったゼンメルは嬉しそうに胸を張り、両腕を胸の前で交差する。
一方、レイフェはうつむき、じっと自身の手を見つめた。
「信じられないよ……僕にも、そんな相手がいたなんて」
あまりにも幸運が過ぎて、これまでの過去を思い返してしまう。
聖力の強いと言われていた他のどんな貴族令嬢でも、他国の姫でも、自分と合致する獣紋を持ってはいなかった。
先ほど会えた少女は――女神の化身か、あるいは神から遣わされた天使なのか。
「オマエだけの相手じゃないけどな。俺とも目が合ったとき、トランスインプレの光が出たし」
「ゼンメルとも? じゃあいったい、いくつ紋があるんだ?」
レイフェは困惑する。聖女ランクが高ければ、複数の獣人ともトランスインプレッションになる可能性は高い。
しかし自分はともかくとして、ゼンメルだって、この国では希少な部類の獣なのに――。
「あの子は複数の獣紋を持ち、なおかつその中に神獣紋もあるってことかい?」
「そういうことだ。――おそれながら、陛下はもう、獣化を心配することもなく、自決をしなくて済む存在となりました。さぁ、王宮へ帰りましょう。さっそくあの聖女を見つけ出して妃に。平民だった場合は愛妾として召し抱えなさいませ」
突然、ゼンメルはおどけた口調で臣下の礼をとった。
しかし、そのノリに合わせることもせず、レイフェは真顔で言い返す。
「たしかに。あの子が平民だとしても、この国では身分差より獣紋の合致が優先されるし……って、君、ちょっと誘導が過ぎない?」
にやり、とゼンメルは笑った。もちろん、わかって言っている。こうして話をつめていけば、レイフェの気持ちも早く定まると思ってのことだった。
「決断は早い方がいいぞ? レイフェはもう二十五歳なんだし。いくら他より獣化の猶予がある王族でも、いつ理性がなくなるかはわからない。ギリギリだと思ったから、ここに来たんだろ」
ギリギリ、との言葉に、レイフェは眉を寄せた。
「希望が生まれたのは喜ばしいよ。でも……君はいいの? 獣紋の合う女性なんて、君だってめったにいないはず――」
するとゼンメルは目を閉じる。「んー」と唸ったあと、レイフェに向き直った。
「まぁ、トランスインプレの直後だからな。あの子ちょっと可愛かったし、惹かれてはいるさ。でも俺は、まだ望みを捨てるまではいってない。ここはお前に譲るのが筋だろうよ」
「そうか、よかった」
心底ほっとした顔つきでレイフェは息をついた。それから、ゼンメルのセリフに引っかかりを覚え、あえて口に出す。
「ちょっと、じゃない。かなり可愛かったよ。僕には輝いて見えた……。あの子、所作も綺麗だったし、瞳も澄んでて美しかったし……」
「そこかよ」
ゼンメルは苦笑する。よほど先ほどの出会いの印象が強すぎたのか。心ここにあらずな状態なのはわかるのだが、これはこれで心配なレベルだ。
「はいはい。妄想はそこまでにしときな。それより、王宮に帰る前に神殿へ寄っていこうぜ。あれほどの聖女なら神殿に登録されているはずだしな」
「名前、知りたいな……いや、もう一度、会いたいな。会ってくれるだろうか……」
「お前……しばらくダメだな」
早急に、さっきの聖女を探さなくてはなぁ……と、ゼンメルは口を閉じるのだった。
「……ゼンメル」
「何?」
「僕は夢を見ているのかな……それとも、もう死後の世界に来ている?」
半裸の黒髪の青年はぼぅっと虚空を見つめている。
すでに身を縛っていた黒鉛の鎖は外され、火も消えた。焦げた香りが充満する小屋の中、淡いピンクの光を身体にまとわせつつ、ただ床に座している。
対して身なりのいい青髪の青年は、速やかに消化活動を終えたあと、にやにやと眼下の男を見下ろした。
「まぁ、落ち着けよレイフェ。――いや、レイフェ・カイザー・リム・ディアル陛下? これは夢じゃない。今いる場所は現公爵領のグリオー二湖のほとり。別名、神獣殺しの地という不名誉な名までついている、結界に守られた小屋の中だ」
目の前に跪かれ、ピタピタと頬をたたかれてもレイフェはまだ夢見心地だ。腹心であるゼンメル・ローヴェルグ公爵子息に揶揄されても、特に反応を示さない。
「……君の結界が緩んでいたのかな? なんであの少女はここまで来れたんだろう」
「いや、確認してみたところ、異常はない。あくまであの子の力だよ」
「ではあの少女が、類まれな聖女ってことかい?」
レイフェの黒々とした瞳が動く。奥に僅かな焦りを含んでいるのを見て、ゼンメルはますます上機嫌になった。
「そう考えるのが自然じゃね? 鳥獣の結界を抜けられるなんて、少なくともランク4以上の聖女にしかできない芸当だ。決まりだな」
「決まりって」
「なに惚けてんだよ、陛下。喜ばしい限りじゃないか。『運命の相手』が現れた以上、死ぬ必要がなくなった。もうこんな風に苦しまなくてもよくなったんだ。国あげての祭だろ、これは」
立ち上がったゼンメルは嬉しそうに胸を張り、両腕を胸の前で交差する。
一方、レイフェはうつむき、じっと自身の手を見つめた。
「信じられないよ……僕にも、そんな相手がいたなんて」
あまりにも幸運が過ぎて、これまでの過去を思い返してしまう。
聖力の強いと言われていた他のどんな貴族令嬢でも、他国の姫でも、自分と合致する獣紋を持ってはいなかった。
先ほど会えた少女は――女神の化身か、あるいは神から遣わされた天使なのか。
「オマエだけの相手じゃないけどな。俺とも目が合ったとき、トランスインプレの光が出たし」
「ゼンメルとも? じゃあいったい、いくつ紋があるんだ?」
レイフェは困惑する。聖女ランクが高ければ、複数の獣人ともトランスインプレッションになる可能性は高い。
しかし自分はともかくとして、ゼンメルだって、この国では希少な部類の獣なのに――。
「あの子は複数の獣紋を持ち、なおかつその中に神獣紋もあるってことかい?」
「そういうことだ。――おそれながら、陛下はもう、獣化を心配することもなく、自決をしなくて済む存在となりました。さぁ、王宮へ帰りましょう。さっそくあの聖女を見つけ出して妃に。平民だった場合は愛妾として召し抱えなさいませ」
突然、ゼンメルはおどけた口調で臣下の礼をとった。
しかし、そのノリに合わせることもせず、レイフェは真顔で言い返す。
「たしかに。あの子が平民だとしても、この国では身分差より獣紋の合致が優先されるし……って、君、ちょっと誘導が過ぎない?」
にやり、とゼンメルは笑った。もちろん、わかって言っている。こうして話をつめていけば、レイフェの気持ちも早く定まると思ってのことだった。
「決断は早い方がいいぞ? レイフェはもう二十五歳なんだし。いくら他より獣化の猶予がある王族でも、いつ理性がなくなるかはわからない。ギリギリだと思ったから、ここに来たんだろ」
ギリギリ、との言葉に、レイフェは眉を寄せた。
「希望が生まれたのは喜ばしいよ。でも……君はいいの? 獣紋の合う女性なんて、君だってめったにいないはず――」
するとゼンメルは目を閉じる。「んー」と唸ったあと、レイフェに向き直った。
「まぁ、トランスインプレの直後だからな。あの子ちょっと可愛かったし、惹かれてはいるさ。でも俺は、まだ望みを捨てるまではいってない。ここはお前に譲るのが筋だろうよ」
「そうか、よかった」
心底ほっとした顔つきでレイフェは息をついた。それから、ゼンメルのセリフに引っかかりを覚え、あえて口に出す。
「ちょっと、じゃない。かなり可愛かったよ。僕には輝いて見えた……。あの子、所作も綺麗だったし、瞳も澄んでて美しかったし……」
「そこかよ」
ゼンメルは苦笑する。よほど先ほどの出会いの印象が強すぎたのか。心ここにあらずな状態なのはわかるのだが、これはこれで心配なレベルだ。
「はいはい。妄想はそこまでにしときな。それより、王宮に帰る前に神殿へ寄っていこうぜ。あれほどの聖女なら神殿に登録されているはずだしな」
「名前、知りたいな……いや、もう一度、会いたいな。会ってくれるだろうか……」
「お前……しばらくダメだな」
早急に、さっきの聖女を探さなくてはなぁ……と、ゼンメルは口を閉じるのだった。