獣紋の聖女
 気が動転していたせいで、アカデミーの寮の出口への行き方を間違えてしまう。何度か迷い、戻り、最初に来た道を思い浮かべながら、やっと門の見えるところまで帰る。
 ここを抜ければ、すぐ傍に循環馬車の停留所があったはずだ。帰りはムリせず馬車に乗ろうと思うのだけれど、ずっと走っていたせいで喉が渇いている。一度、体を休めたい。
 寮の時計台をみると、まだ時間に余裕があった。寮内にある広場わきのベンチに座り、一息つくことにした。

「どうしよう……さすがに放っておけないわ」

 問題は、アルルの部屋のことだ。もしあれが本当にいじめだったら、寮長に報告するべきかどうかも悩んでしまう。言ったことでますます酷いことになったら本末転倒だ。もしくは、これがきっかけで、アルルが退学になんてなったりしたら。
「とりあえず……お兄さまに相談ね」
 腰をあげたときだった。

 視線の先に、見覚えのある青年がいる。
 公爵領の湖畔の小屋で会った、忘れたくても忘れられないほどの印象だったあの二人が、なぜかアカデミー寮の敷地を歩いている。
 自分が変装をしていることも忘れ、そっと木陰に身を忍ばせた。

(こんなところで会えるなんて)

 信じられない。でも悪い気はしない。むしろ、会えたことで胸の奥がぽうっと温かくなるような、おかしな気分だ。
 状況が落ち着いているせいか、以前、小屋で会ったときよりも素敵に見えるのは言うまでもない。
 特に黒髪の、優しげな雰囲気の男性が気になって、ついつい目で追ってしまう。
 
 二人はなにやら会話をしているようだった。けれど、ここからは距離があって聞こえない。もう少しだけ、と距離を詰めるべく、木陰から壁へ、壁から別の樹の後ろへと移動すると、ようやく断片が聞き取れるくらいになった。

(寮に何か用事でもあるのかしら?)

 どうみても二人はアカデミーの学生という年ではない。ならばどんな用事で来たのだろう。
 ご弟妹の様子でも見に来たとか? あるいは寮長さんに用事とか?
 口元をおさえ、やきもきしながら耳をそばだてる。
 すると、青髪の男性のほうが、遠くからでもはっきりとわかるくらい不機嫌そうな声を出した。
 
「レイフェ、なんでここに来てんだよ」
 その人は腕組みをしながら、門に近い位置にいた黒髪の男性を責めるようにいった。
 黒髪の人はレイフェと言うらしい。思いがけず名前がわかって胸が鳴った。

(レイフェさん……あ、レイフェさま、かな? この国ではよくある名前だけど……響きが好きだわ)
 
 装いは簡素で装飾も最小限。なのに、姿勢と佇まいがしっかりしているせいで、一般的な服装でも際立って見える。よくよく見れば、服の生地もすぐわかるほどに上質だ。淡い紫色の肩布には刺繍が細かく縫ってあるし、白生地の部分にはパールの光沢がのっている。色の組み合わせ自体に品もあるけれど、それ以上に物腰が柔らかくて、服装の個性と合っている。
 レイフェさまは、一つに束ねた長い黒髪を胸元で揺らしながら、返事をした。
「休憩時間だからね。ずっと執務室にこもっていても健康に悪いだろ?」
 どうやら仕事を抜け出して来たらしい。
 見かけよりも不真面目な人なのかなぁと、ますます耳を集中させてしまう。
 
「だったらせめて変装しろよ。最重要機密だぞ。こんなところでバレたら、それこそ大騒ぎだろうが。俺がなるべく目立たないようにやってるのに、意味ねーだろ」
「次からそうするよ。で、ゼンメルはどんな探し方をしてるんだい」

 青髪の人は、ため息をついた。こちらの方はゼンメルという名前らしい。ちょっと口は悪いけれど、レイフェさまと仲良さげなので、きっと近い身分の方なのだろう。

「まずアカデミーにいる貴族令嬢で、領地から来る途中にあの場所を通る者をリストアップする。そのあと、金髪の令嬢だけを残す。それでだいたい絞られるはずだから、あとは実際に会ってみればわかんだろ」
「いいね。じゃ、寮長に聞いてこようか」
 
(……? よくわからないけれど、人を探しているのかしら?)

 だったら力になれそうもない。
 自分は、アカデミーの生徒はおろか、王都の貴族とも面識がないのだから。
 もう一度、話してみたい気持ちはあったものの、ただの出しゃばりになるのも良くないと思い、完全に木の陰に隠れる。
 二人は寮長室に向かうらしい。このまま息をひそめていれば、会わずに済むだろう。

「……ん?」
「どうした、ゼンメル」
「いや、ちょっとな。お前はそろそろ帰れよ」

 このとき、私は気づかなかった。
 青髪の男性――ゼンメルさまが、私の隠れた樹の方向を、じっと見つめていることに。
 ジュレさんから購入したウィッグは、予想以上に盛り盛りな髪型だったので、その片鱗が気の幅からはみ出てしまっていたらしい。
 だから、わからなかったのだ。
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