獣紋の聖女

16 ネイジアサロンの自由聖女

「なるべく宿を出るなよ。出るときは俺を呼べ」
 王都の宿屋で暮らすようになってから十日、以前よりお兄さまはうるさくなった。実家にいたときもここまで細かく言われることはなかったのに……と、意外な一面を見てしまったように思える。
 心配してくれるのはありがたい。でもそのせいで、私は本当に慎ましい生活を送ることになった。
 毎日、ちゃんと変装はしていたのだけど。
 歩く範囲は宿の周辺のみ。騎士団寮は出入りを禁じられ、アカデミーにも行くなとクギを刺されてしまっては、軽い買い物くらいしかできない。
(今はお兄さまからの資金援助があるから、生活には困ってないけれど……)
 先日の同行で、騎士団から報酬もいただいた。それはそれでよかったけれど、予想どおり素敵なドレスを買うまでの金額には至らない。
 だから使わずに済んでいるのだけど、この先サロンで暮らすとなると、ドレスなんか購入している場合じゃない。
 正式な自由聖女ではなく、もぐりの聖女となるのなら、自分のお金を生活にあてないとやっていけなくなる。

(もう獣紋夜会はあきらめて、獣サロンにずっといようかしら――)

 とも思うけれど。やっぱり獣紋が明確にわかってないことには、未来に不安がありすぎる。
 今、手の甲にある獣紋は四つ。ネイジアのサロンで増えた四つ目の獣紋は、どことなく鳥の形に似た紋様だ。
「……鳥といえば」
 ぱっと窓際を見る。宿の二階の私の部屋には、森で会ったキューちゃんがいる。あの後、私のことを追って王都まで来てくれたのだ。
 さらにキューちゃんは仲間も連れてきたようで、十日ほど前から新しく、雀の子も窓際で見かけるようになった。
 その子は、小さな羽根を震わせながらちゅんちゅんと、かわいくエサをおねだりしてる。
 私はひそかに「リリンちゃん」と名付けた。ちぎったパンを差し出すと、嬉しそうにどこかへ飛んでいく。
 きっと家族にあげるんだろうなって微笑ましく見つめるまでが、朝の憩いのひとときとなった。

「そろそろお兄さまが来る時間だわ」
 時計を見る。今日はようやく再びネイジアのサロンへ行く日だ。
 あれからお兄さまは、騎士団の上層部にかけあって、ネイジアに再調査に行く算段をつけた。今、捜索中のゴットハルトさんは、元第一騎士団の長だったから、復帰ができれば有益という理由で承諾を得たらしい。
 ちなみに、私の名は表向きアルイーネで通っている。慰問に行くのは基本ボランティアで、誰が行っても良いことになっているため、こちらは問題ないはずだった。

「安心して治療ができるわね」と答える私に対し、お兄さまは、今でも渋顔をしている。
「熊獣の団長を治療するまでだぞ」との条件付きをしつこく繰り返すので、本当はネイジアには行かせたくないのだと分かる。
 あちらで泊まることになっても、保護という名目で付き合ってくれるつもりらしい。なんだかんだで、優しいお兄さまだ。

 ネイジアの獣サロンに到着すると、すでに獣化した人たちが列をなしていた。
 獣化というのは、病状が進めば進むほど体にも痛みが生じてきて、理性を失くすまでそれが続く。
 逆に考えれば、人間でいるために、理性を失くすまいと痛みに耐えてる人たちがいるということだ。――そんな姿を知れば、誰だって助けたくなると思う。
 回帰前は、自分の夫であるトレミーだけに目を向けていればよかった。
 でも、こうしてたくさんの人たちを救える力があるのなら、やっぱりできるだけ多くの人たちの役に立ちたいと思ってしまう。

「あらかじめ、サロンに入る獣人には目隠しをつけさせてます。レディは安心して治療にあたってください」

 先日のカラス獣の方が、そう言いながら治療室まで案内してくれる。
 名はニコロさんというらしい。もともとは隣国スコルハティアの行商人で、ネイジアの集落で商売を始めた矢先に獣化が酷くなったとか。人間姿は、長い前髪で片目を隠しているちょっとミステリアスな印象のお兄さんだ。
 お礼を言い、自分の獣紋手袋を外す。斜め後ろの席には、何かあったときのためにお兄さま、もしくはコスタさんが付いていてくれる。
 そうして私は、ひとりめの患者さんを迎えたのだった。
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