獣紋の聖女
ジュレさんの家は王都の外れのほうにあるという。
私は、お兄さまやコスタさんとともにそちらへ馬車で向かい、深夜にようやくたどり着いた。
日が暮れる前、馬車の中で読んでいた獣人百科の本を抱きしめる。
これはサロンにあった資料本の一つで、以前の自由聖女が使っていたものらしい。
百科という名が付いてるのにふさわしく、当然タガメ獣についても表記があった。
『タガメ獣:獣化時には体積が7~12倍に増え、体色も灰褐色から翡翠色へと変わる。理性を失うと狂暴化し水を必要としなくなる。前脚は鎌状で太い捕獲脚になっているため、捕獲された獲物はまず逃げられない。口吻の中には口針があり、毒を持っているので注意が必要。触角は頭部の複眼下に隠れているが、獣化人間においては自在に操ることが可能である』
(蟲獣は帝国領に多いと書いてあったから……私では役に立てないかもしれない)
エンデニア帝国は多神教だ。そのうちの一神である蟲神オメタは、ここリムディアでは崇拝されてない。その土地の聖女でないと、治療は難しいだろう。鳥獣だってたまたま治療できたことのほうが想定外なのだ。これ以上、僥倖が続くとも思えない。
「ここだよ、扉を開けるね」とジュレさんが、自宅の一室のドアを開けた。中は暗闇でよく見えないが、鼻を突くような異臭と何かがうごめいているのだけはわかった。
「マッピオ、私だよ、わかるかい?」
言いながらジュレさんが明かりを入れてくれる。
旦那さまの名はマッピオというらしい。可愛らしい名前だけれど、ベッドにあおむけに拘束され、空をかきむしりながら足を動かしているさまは見ていて哀しくなってくる。まるで、死を目前にした蝉のようだ。
「……頼むよ、コルルさん」
必死の想いが伝わってくる。私はジュレさんに促され、ベッドのそばへ行き祈りを開始する。
いつものように祈りの言葉を唱え、マッピオさんの獣化が治るよう心を込めた。
「……っ」
しかし、数分経っても何も起こらなかった。
私の左手の甲は完全に沈黙しており、治癒の光を発さない。
もちろん、自身に聖力がなかったとも考えにくい。馬車で長距離を移動してきたとはいえ、今日、治療した獣人はいつもの半分くらいだったはずだ。
「コルル、気の毒だが祈りはもうやめろ。ムリなものはムリだ」
扉の近くで私を見守っていたお兄さまが言う。その声は聞こえていたけれど、祈りをやめる気にはならなかった。肩に手が置かれる。ジュレさんが励まそうとしてくれたのだろうか、その瞬間何かがブチっと切れる音がした。
「え……?」
それまで私の頭に乗っていたカラスのキューちゃんと雀のリリンが一斉に飛び去る。私はというと、視界に大きな布が降りたかと思うと、強い力でベッドに引き寄せられた。
何が起きたかわからない。でも、背中と肩に痛みが走った。見れば鎌状になったマッピオさんの足が、喰い込んでいる。そのままバランスを失った私は――。
「……あっ」
「コルルさん!」
首筋に違和感が生じた。まるで心臓を刺されたのかと思うくらい、あるいは剣で斬られたと錯覚するくらいの激痛が走る。
油断だったのか。拘束されているから安心と思ったのがいけなかったのか。相手は蟲でも理性を失った獣なのだ。治療できなければ、こういう危険もあることを忘れていた。
お兄さまが叫ぶ声が最後に聞こえた。
「しまった。たしか毒が」――そう思ったときにはもう遅く、瞬時に意識を手放したのだった。
私は、お兄さまやコスタさんとともにそちらへ馬車で向かい、深夜にようやくたどり着いた。
日が暮れる前、馬車の中で読んでいた獣人百科の本を抱きしめる。
これはサロンにあった資料本の一つで、以前の自由聖女が使っていたものらしい。
百科という名が付いてるのにふさわしく、当然タガメ獣についても表記があった。
『タガメ獣:獣化時には体積が7~12倍に増え、体色も灰褐色から翡翠色へと変わる。理性を失うと狂暴化し水を必要としなくなる。前脚は鎌状で太い捕獲脚になっているため、捕獲された獲物はまず逃げられない。口吻の中には口針があり、毒を持っているので注意が必要。触角は頭部の複眼下に隠れているが、獣化人間においては自在に操ることが可能である』
(蟲獣は帝国領に多いと書いてあったから……私では役に立てないかもしれない)
エンデニア帝国は多神教だ。そのうちの一神である蟲神オメタは、ここリムディアでは崇拝されてない。その土地の聖女でないと、治療は難しいだろう。鳥獣だってたまたま治療できたことのほうが想定外なのだ。これ以上、僥倖が続くとも思えない。
「ここだよ、扉を開けるね」とジュレさんが、自宅の一室のドアを開けた。中は暗闇でよく見えないが、鼻を突くような異臭と何かがうごめいているのだけはわかった。
「マッピオ、私だよ、わかるかい?」
言いながらジュレさんが明かりを入れてくれる。
旦那さまの名はマッピオというらしい。可愛らしい名前だけれど、ベッドにあおむけに拘束され、空をかきむしりながら足を動かしているさまは見ていて哀しくなってくる。まるで、死を目前にした蝉のようだ。
「……頼むよ、コルルさん」
必死の想いが伝わってくる。私はジュレさんに促され、ベッドのそばへ行き祈りを開始する。
いつものように祈りの言葉を唱え、マッピオさんの獣化が治るよう心を込めた。
「……っ」
しかし、数分経っても何も起こらなかった。
私の左手の甲は完全に沈黙しており、治癒の光を発さない。
もちろん、自身に聖力がなかったとも考えにくい。馬車で長距離を移動してきたとはいえ、今日、治療した獣人はいつもの半分くらいだったはずだ。
「コルル、気の毒だが祈りはもうやめろ。ムリなものはムリだ」
扉の近くで私を見守っていたお兄さまが言う。その声は聞こえていたけれど、祈りをやめる気にはならなかった。肩に手が置かれる。ジュレさんが励まそうとしてくれたのだろうか、その瞬間何かがブチっと切れる音がした。
「え……?」
それまで私の頭に乗っていたカラスのキューちゃんと雀のリリンが一斉に飛び去る。私はというと、視界に大きな布が降りたかと思うと、強い力でベッドに引き寄せられた。
何が起きたかわからない。でも、背中と肩に痛みが走った。見れば鎌状になったマッピオさんの足が、喰い込んでいる。そのままバランスを失った私は――。
「……あっ」
「コルルさん!」
首筋に違和感が生じた。まるで心臓を刺されたのかと思うくらい、あるいは剣で斬られたと錯覚するくらいの激痛が走る。
油断だったのか。拘束されているから安心と思ったのがいけなかったのか。相手は蟲でも理性を失った獣なのだ。治療できなければ、こういう危険もあることを忘れていた。
お兄さまが叫ぶ声が最後に聞こえた。
「しまった。たしか毒が」――そう思ったときにはもう遅く、瞬時に意識を手放したのだった。